■2021年12月 善行

■2021年12月 善行

 この度、京都ハリストス正教会の聖堂が、姉妹教会の函館教会や豊橋教会に遅ればせながら「重要文化財」に登録される運びとなりました。ニコライ堂を含め、日本正教会の聖堂では4例目です。及川神父様曰く、奇しくも豊橋を兼務していたことで築けた人脈、得られたノウハウがあったからこそ、話はトントン拍子に進んだとのこと。神様の計り知れない恩寵に感謝しております。

 さて、文化財には国宝や重文以外にも6種類あるのですが、私たち信徒にとっての財産は何も有形の建造物だけではありません。主の存命中から受け継がれ、4世紀を代表する金口イオアンや聖大ワシリイが編纂したとされる聖体礼儀。文化庁による登録の対象外であれ、紛れもなく天国の民の「無形民俗文化財」です。ゆえに、この執行機会ならびに理念を絶やしてはなりません。

 とりわけ、ハリストス自らその必要性を説かれた「領聖」は、信徒にとって大切な務めです(マトフェイ26:26-28など)。人々は「罪の赦と永生(『奉事経』p.177)」を得るために聖体血を拝領するばかりか、同じ釜の飯を食らうことで信仰の一致へと繋がります。従って、可能な限り日々の祈祷や斎を通して心身の準備を整え、聖体礼儀当日を迎えたいもの。しかしながら、時として人間関係がその気持ちを妨げることがあるでしょう。

 「善きサマリヤ人の譬え(ルカ10:25-37)」において、自分こそが正しいことを証明したい律法師は、「隣人を愛する」という誡めを狭い意味で解釈し、それを誇示していました。それを見抜かれたハリストスは、律法に対して同じく律法を引用し、律法師の口から彼ら自身を裁くように仕向けて反論します。すなわち、永遠の生命を得るための方法を尋ねた律法師に対し、ハリストスは神様と隣人を同様に愛するよう命じ、「善きサマリヤ人」を引き合いに出して「隣人とは誰であるか」を教えられました。これは、ルカ伝にのみ記された事柄であり、概要は次の通りです。

 イエルサリムからイエリホンに向かっていたある人が、盗賊に遭遇して身ぐるみ剥がされ、重傷を負って今にも死にそうな状態にありました。そこに、たまたま神殿にかかわる司祭やレワィトが通り掛かります。しかし、彼らは見て見ぬ振りをし、立ち去ってしまいました。その後、当時イウデヤ人と交際してはならなかったサマリヤ人が通り掛かります。そして、その人は豊かではないにもかかわらず、彼の傷に酒と油を注ぐだけでなく旅館まで連れて行き、そこの主人に金銭まで払って後を託す、という彼女にとって精一杯の憐れみを施しました。ここまで話したハリストスは、律法師に「三人のうち誰が盗賊に遭った人の隣人と思うか」と質問なさいます。この譬えを耳にした律法師は、憐れみを施す全ての人が隣人であると答えました。

 しかしながら、キリスト教の解釈では、神様に創造された私たちは敵でさえもが兄弟であり隣人なのです。よって、人々をこよなく愛する主は、私たちに敵をも愛するように命じられました(ルカ6:35)。この理由は、①我々が友人や恩人に対して互いに表す愛や慈善は不完全であり、②敵に対する愛こそ完全であるから、と説明されます。ただし、犠牲や燔祭のような心を伴わない形だけの行いを神様はお喜びになりません(聖詠50:18)。従って、敵に示す愛は自己中心的なものではなく、神の愛「アガペ」でなければならないのです。

 ところが、「善きサマリヤ人」の如く、憎しみ合う関係である人に対し、見返りを期待しないばかりか、むしろ率先して憐れみを施すことはそう簡単ではありません。とはいえ、神様は人を憐れむゆえに藉身なさったのですから、私たちもまた神様の憐れみを知り、神様に倣って隣人を憐れむ「善行」こそが喜ばれることを心に留める必要があります。そして、憐れみを必要とする者に出遭ったならば、人種や宗教の違いを超えて誰であろうと憐れみを施すべきなのです。

 聖体礼儀の度にもこのような善行がなされています。それは、他者の「記憶」です。連祷の言葉に目を向けますと、教会を司る主教のため、国を司る者のため、その場に集う者のため、あらゆる事情で集えなかった者のため、すなわち「衆の爲、一切の爲」に祈りが捧げられています。

 時間や距離による隔たりは存在しない、という固い信仰を私たちが持つならば、記憶を通して時差や居場所ですら超越した祈りを紡ぐことが可能です。世界中のあらゆる場所において祈祷が行われることは、まさに「絶えず祈りなさい(フェサロニカ前5:17)」の実践と言えるでしょう。その際私たちは、家族や親しい信徒に限らず、聖職者や同じ教会共同体の永眠者、さらには祈りを必要とする仲間の姿を思い浮かべたいもの。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マトフェイ5:44)」とある通り、関係が良好ではない信徒のために進んで祈る姿勢も求められます。なぜなら、神様に向き合う姿勢は「プライベート」でありつつも、私たちは「敎會の充滿(『奉事経』p.188)」を守り信仰を分かち合う「パブリック」な一つの共同体として天の国を目指すからです。

 また、聖人、生ける者、死せし者として記憶された人々が全てこのディスコスに置かれ、ポティールへと投入されてハリストスと一体になるのは聖体礼儀の時のみです。ですから、信徒の皆さんが聖体礼儀に与れる際は余裕を持ってお越しいただき、ぜひとも「聖パン記憶」をなさってください。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ10:20)」という御言葉からも、一枚の皿の上で天上の教会と地上の教会が同時に象られる様子は神様の国を表します。復活を信じる者全てが天国に招かれて一つになる儀式、これこそが私たちにとっての「無形民俗文化財」なのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)