■2021年9月 就寝

 「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(マトフェイ17:19)」。癲癇の者を癒せずに悔しがる弟子たちは、師匠の主イイススにその理由を尋ねました。すると、返ってきた答えは冷徹ながら「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。時に私たちは、気に入らない仲間のことを「信仰が薄い」と非難したくもなるでしょう。しかしながら、主の場合は使徒たちの不手際を咎めるのが本意なわけではなく、ましてや彼らの人格を否定するのが目的なわけでもありません。そうではなく、「この種のものは、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と、最終的には師匠として弟子たちの務めを鼓舞なさっています。

 当時の使徒たちに足りなかったのは、「からし種一粒ほどの信仰(同上17:20)」です。とはいえ、主の御言葉に奮起させられた彼らの信仰は次第に成熟し、とうとう栄えある役割をも担うようになりました。その一例が次の祈祷文に集約されています。「神言を実際に見た者とその従者が、神の母の肉體における就寢、また終の祕密を見るのは相応しい。なぜなら啻救世主が地より升るのを見るだけでなく、彼を生んだ者が移されることをも証明する爲である(生神女就寝祭の晩課、リティヤの讃頌)」。

 本日、京都教会ではその記憶を行う「生神女就寝祭」を主日と併せてお祝いしています。一般的には「聖母被昇天」と呼ばれることの多い祭日。正教会ではこの名称を退け、聖師父たちは次のように説明してきました。すなわち、「火の状の車が、正しきイリヤに於ける如く、生神女を地上より移したのではなく、即ハリストス親ら彼女の至聖なる靈を、至りて瑕なき者として其手に接け、己の内に安息させ、靈妙に生神女潔き者を尊み、智慧に超える歡喜に移し給わった(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」のです。また、「(イイススはマリヤ様が)自然な方法で死ぬのを容認したのは、不信者が彼女を幻像と思わないようにするため(同上)」とも述べています。ただし、「死ぬ可き腰より出て(私たちと同じ)自然な終に遇いはしたが、眞の生命を生んだ者として、神聖なる實在の生命へと移られた(生神女就寝祭の早課、カノン第三歌頌)」ことは留意しなければなりません。

 その際に重要な役割を果たしたのが、先に述べたところのかつては頼りなかった使徒たちです。「浅はかさを捨てて命を得、分別ある道を歩(箴言9:6)」んだ結果、「(生神女の)不死の就寢の時に雲は使徒たちを空中に擧げ…世界に散じ居た者はみな彼女の至聖なる體の前に集まり、恭しく葬る(同上、早課の讃頌)」ことができました。「諸使徒が送り、諸天使は接ける(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」様子はまさに、かつて主が「この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる(マトフェイ17:20)」と教え諭した場面に通じるものがあるでしょう。

 このように、「無形の天軍はシオンに於て生神女の神聖なる體を環り、使徒の會も俄に地の極より集まって、彼女の前に立ち(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」ました。そのうちの一人・聖使徒パワェルは促します。「わたしがハリストスに倣うように、あなたがたはわたしに倣う者となりなさい(コリンフ前4:16)」と。よって、私たちは「彼等と偕に…尊き記憶を讃榮(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」すべく、二週に及ぶ斎期間を設けてこの祭日を毎年盛大に祝うのです。

 トロパリで歌われる「寢る時世界を遺さざりき(同祭日の発放讃詞)」とは、この世での命を終えようともマリヤ様は人々を決して見放さないことを意味します。ですから、私たちは生神女の庇護のうちに、思いを新たにした使徒たちに倣うことが可能です。まずは、自らが「心に隠れ潜むあらゆる凶悪な不浄の気(『聖事経』p.26)」を追い出すための努力を重ねたいもの。その次に、ハリストスの御許にてマリヤ様や使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、神様に祈りを献じてまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)