イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。
それはコエンドロの実のようで白く、その味は
蜜を入れたせんべいのようであった。
イスラエルの人びとは人の住む地に着くまで、
四十年の間マナを食べた。すなわち、かれらは
カナンの地の境(さかい)に至るまでマナを食べた。
(旧約聖書「出エジプト記」16章参照)
正教会(オーソドックス・チャーチ)は、脳の教会ではなく、胸、心臓の教会だというお話をしました。そこからいくと、正教会は、脳の教会ではなく、腹、おなかの教会、信仰です。
正教会には、水曜・金曜の斎(ものいみ)、聖体礼儀の前の晩の斎、祭日の前の期間を定めた斎など、いくつもの斎があります。
直近では、7月12日聖使徒ペトル・パウェル祭をめざす「聖使徒の斎」があります。
どうしてこういう斎があるのでしょうか?
食べる 食べない、飲む 飲まない 節制・禁食などに、こだわる斎を目の前にすると、大多数の人は、まずどう取り組もうか 頭で方策を考えてから、斎に入ることでしょう。
では頭で、脳で考えて、斎に取り組むという行動は、はたして正しいのでしょうか。
こういう説話が伝わっています。
ある若者が、砂漠で隠遁生活を行っている修道士に憧れて、自分もその生活に入りたいと願いました。
すると白髪の修道士は、黙って、カップにいっぱいの水を入れ、次にカップの中身を捨てて見せました。
これは水の尊さ・貴重さを説明したのではありません。
あなたの中身をからっぽにして、神のおられるべき場所をつくってから、おいでなさいと諭したのです。
おなかもそうです。
斎をすると、喉は渇く、腹は減る、妄想がわく、どうでもいい考え事がわんさか浮かんできます。
ここで必要になるのが「祈り」ではないでしょうか。
祈りの第一段階とは何でしょう、それは、すべてのこの世的な考えを捨て去り、空っぽにする、神のみを自分に容れる、ということではありませんか。
哲学する、考える と、正教会の「祈り」は相反することがあります。
それゆえ正教会で神学者と言われる聖人は、神の心に耳を澄ませた神学者聖イオアン(ヨハネ)のように祈りの人です。考えだけを最優先する学者ではありません。(イコン画像:弟子に口述筆記する神学者聖イオアン)
修道士は正しい斎の在り方を、「血を流さない致命(ちめい、殉教)」と呼ぶそうです。
領聖「聖体拝領」のとき、聖なる体であるパンを食べ、聖なる血である赤ぶどう酒を飲んだとき、どういう感動・感慨を持つべきなのでしょうか。
「ああ美味しい」
「生きていて良かった」
ひらたくいうと、
「いま わたしは救われた、うまい」
こう感動して、よいのではないでしょうか。
素直に、神の賜る食べ物、日用の糧を、おなかで味わうのです。
斎とは空腹の実感です。
精神的、肉体的 喪失感、空虚、飢餓、まるで腕や、足がもがれてしまい、からだの一部が無くなってしまったかのような失望感。
これらを補い満たすものは何か。
神です。
救いといやしの源泉は何か。
聖体拝領、領聖です。
聖なるものを 食べ 飲むことが、救いといやしの根源となります。
斎の体験とは、ある意味、考えることをやめ、祈ることに集中するために行われます。
脳で理屈っぽく考えず、からだの中心、心臓で、おなかで祈る。
正教会では、
「からだの中心を意識し、おなかで祈りなさい」
と教えます。
神との一体は、脳の一部の錯覚ではなく、心臓・おなか、すなわち体全部、からだ全体の一致・体合です。
からだの中心、心臓、おなかで祈りはじめる時、信仰者は、神の時、神の国の到来、救いを、生きる喜びを確かに全身に感じることでしょう。
(長司祭 パウェル 及川 信)