■2021年7月 放光

■2021年7月 放光

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい(創世記15:5)」。かつて神学生同士で外食に出掛けた帰り路、仲間が冬の夜空を眺めて言いました。「今日はオリオン座が綺麗に見えている」と。「北斗やオリオン…すばるや、南の星座を造られた(イオフ9:9)」のは神様であることを知りながら、成長するにつれていつしか星空に思いを馳せなくなっていた私。友人の何気ない一言に心を動かされ、久しぶりに天上へと目を向けます。幼い頃の記憶では、点と点がハッキリと線で結ばれ、確かにあの「鼓型」が浮かび上がっていました。ところが、まるで「天のもろもろの星とその星座は光を放たない(イサイヤ13:10)」かの如く、大人になった私の瞳には輝かなかったのです。

 このショッキングな出来事は、実際のところ近視や乱視の進行に起因するものでしょう。とはいえ、信仰生活を送る中でも、このように盲目的な局面が存在することを連想せずにはいられません。例えば、せっかく教会に救いを求めて足を運んだものの、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた(使徒行実27:20)」ように感じた方々もおられるはず。しかし、当然ながら「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違い(コリンフ前15:41)」があります。それに、「太陽も月も星も光り輝いて自分の務めに忠実(イエレミヤ書礼59節)」、かつ「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝く(ワルフ3:34)」ことを心に留め、パッと見ただけの印象で悲観的になってはいけません。

 自然豊かな京都市内では、祇園や銀閣寺といった市街地においてもゲンジボタルが飛び交います。観賞がてら私も撮影を試みましたが、不規則に点滅する黄色い光は何匹分かまとめて写すのがやっとのこと。けれども、カメラマンたちは「長時間露光」と呼ばれる方法などを駆使し、絶え間のない光線として同じ風景を表現力豊かに収めます。これらの要素から我々が学ぶべき大切な事柄は二点です。

 第一に、より多くの光を相応しく受容できるレンズを自身のうちに備えること。正教の祈祷書によれば、あらゆる聖人たちは暗闇を照らす「光」、さらには信徒を導く「星」であって、「光り輝く星は、夜空の美しい装い…主の高き所できらめく飾り(シラフ43:9)」としての尊敬を集めます。しかしながら、「度生と行とを以て輝き、言と教とを以て輝き、日が星より更に光れる如く、一切に於て衆より更に光れる(三成聖者祭の早課カノン第三歌頌より)」者、すなわち「節制を守った人たちの顔が星よりも輝くとしても、わたしたちの顔は闇よりも暗いではありませんか(エズドラ第三7:125)」。また、乱視のように光を正しく屈折させられないレンズの場合、映し出せるのは歪んだ像のみです。

 第二に、各信徒がより長く光を放ち続けること。蛍がお尻を光らせる理由には諸説あるようですが、一般的には「求愛行動」と考えられてきました。人々が神様の御許に参集して祈祷を捧げる姿やその目的は、まさにこれと似通っています。ただし、神様に対して必死に祈っているつもりでも、「身の恥を泡に吹き出す海の荒波(イウダ13節)」みたく一時の感情に過ぎないものであったならば、その人は「永遠に暗闇が待ちもうける迷い星(同上)」。ゆえに、「夕べの星も光を失い…待ち望んでも光は射さず…曙のまばたきを見ることも(イオフ3:9)」ありません。

 だからこそ、私たちは「夜が明け、明けの明星が…心の中に昇るとき(ペトル後1:19)」に至るまで、「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く(フィリッピ2:15)」存在を目指すべきなのです。そうすれば、「目覚めた人々は大空の光のように…多くの者の救いとなった人々は…とこしえに星と輝き(ダニイル12:3)」、「一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの(エウレイ11:12)」次世代を担う信徒ひいては聖人たちが生まれ出ることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)