■2021年6月 人間の体シリーズ 胸(むね)と心臓(しんぞう)

その弟子が、イイススの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、それはだれのことですか」
と言うと、イイススは、
「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」
と答えられた。
(イオアン(ヨハネ)福音書13:2-26)

 漫画ルパン三世シリーズの劇場版アニメ第1作、1978年公開のアニメ映画「ルパンVs複製人間」(ルパン対クローン)。
 その映画には、生命維持の巨大なガラス装置にはいっている、ドクターマモーが登場します。何千年も複製、クローンとして生き続けたマモーのオリジナル、マモー本人は、脳だけという、象徴的なシーンに、当時高校生だったわたしは、脳だけのマモーの姿、劇場の大画面に息を飲みました。
 人間は、現代人は、脳に異常なほどの信頼と畏怖を寄せます。
 ところが正教会(オーソドックス・チャーチ)は脳に固執しません。むしろ脳ではなく、胸すなわち心臓・心臓の鼓動に焦点を当てます。
 胸、心臓は、わたしたちにとってどういう存在なのでしょうか。
 人は感動すると、胸が熱くなります。ほんとうに人が好きになると、胸が切なくうずきます。頭の脳ではなく、胸が反応し、熱くなります。ですから苦悩や試練にさいなまれている人は、動悸が激しくなり胸が苦しくなるのです。
 信仰者にとって胸、心臓は何でしょうか。
 聖使徒イオアン(ヨハネ)は、イイススの胸に寄りかかり、神の子の鼓動を聴きます(イオアン・ヨハネ13章参照)。それゆえイオアンは神学者といわれます。
 神の心を知る者が正教会では「神学者」です。頭でっかちの理論派の学者ではなく、神の鼓動に耳を澄ませる者が神学者です。
 すなわち胸、心臓とは、神様と交わる、一番深い場所です。
 胸、心臓は、たとえるならば、神の水を汲み出す、尽きざる泉、永遠の生命が湧き出す泉、サマリアの女性がイイススに出会った井戸のようなものです。
 心臓の鼓動のような祈り、祈祷は、人と神とを密着させます。
「われら安和にして主に祈らん」
「衆人に平安」
 これらの祈りは、正教会の基本、原点です。
 祈るとき、人は、口と言葉のみでなく、みんな、心臓の鼓動すら一致させて祈らなくてはならないでしょう。
 人が聖堂に一堂に会して祈るということは、口先だけ、音程だけを一致させるだけではだめです。ほんとうに、体を、胸を、心臓を、鼓動を一致させて、みんなで祈らなくてはなりません。自分がああ、きれいな聖歌を歌えて良かった、という感傷だけに浸っているうちは、実はまだまだなのです。
 ほんとうに、人が、体を、胸を、心臓を、鼓動を一体化させて祈ることが重要です。
 胸とは神の宿るところです。
 そして心臓とは、神の心を宿すことのできる聖地、聖なる場所です。
 心臓の鼓動とは、神の息、生命の神秘、復活の生命を体感するところであり、心臓の鼓動とは、神様の新たな天地創造の始まっているエネルギーの原点ではないでしょうか。
 だからこそハリスティアニン(クリスチャン)は胸に十字架を画くのです。

(長司祭 パウェル 及川 信)