■2021年6月 農夫

映画レビュー「葡萄畑に帰ろう」

─ 爾等も我が葡萄園に往け、我至当の者を爾等に与えん(マトフェイ20:4) ─

あらすじは、日本語公式サイト http://www.moviola.jp/budoubatake/ 等を参照されたい。

 

 「万軍の神よ、面を返し、天より臨み観て、斯の葡萄園に降り、爾が右の手の植え付けし者と、爾が己の為に定めし芽とを護り給え(聖詠79:15-16)」。この聖句は高位聖職者が唱える祈祷文にも用いられ、創造主である神が常にその被造物を気に掛けておられる様子を表す。そして、この恩寵が何も善人に限られた特権ではなく、いかなる悪人に対しても変わりのない事実(マトフェイ5:45)としてキリスト教徒は心に留める。

 『葡萄畑に帰ろう』は正教国で産声を上げながら、極力宗教色を排した映画。ゆえに、神の庇護を観客に直接意識させる場面が登場することはない。けれども、正教のエッセンスをひしひしと感じさせる仕上がりである。とりわけ、主人公のギオルギ(ゲオルギイ)は、人々から「神を畏れないのか」と罵倒されたほどに信仰心の乏しい人物には見受けられない。彼の名は、ギリシャ語で「地を耕す者」の意味を持つ。特別な椅子によって、葡萄園の跡取りから大臣職にまで引き上げられたこの男は、権力者に抗わなかったことで瞬く間に天から地へと突き落とされた。そのような不遇の中にあってもなお、彼は一家の主として愛する家族を守るため、自ら立ち上がる決意を固める。結局は「昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がり(ミヘイ2:8)」、奮闘むなしく裁判所の決定に屈して住居の立ち退きを勧告されつつ、この不運はかえって「復活祭が台無しだ」という気持ちをも想起させた。

 ここからのシーンが実に興味深い。目を覚ました彼は我が家に閉じ込められていることを知り、すぐさま鍵を探すも見つからずに狼狽える。ところが、皮肉なことに以前愛車をパンクさせ、教会にとっても死の象徴である手元の「釘」が役立った。まるで、正教の地獄に関する伝統的な解釈が反映されているかのように窺える※1。また、アナグマに掘られたトンネルの存在を偶然にも思い出し、この「暗闇」を通り抜けて警官たちの包囲網をまんまと掻い潜った。脱走の末に辿り着いたのは、友人宅のワイン樽。ここから姿を現した演出に至っては、罪を清める「洗礼」への結び付きを示唆しているものと思われよう※2。つまり、監督はこの一連の流れに、ある農夫の「受難」と「死」と「復活」を描きたかったに違いない。

 こうして人生をやり直す好機を掴んだギオルギは、生まれ育った故郷へと帰還する。すると、彼以外の人物を決して座らせることのなかった椅子が乗せたのは息子の「ニカ(勝利の意)」。すなわち、もはや人種も身分も性別も関係のない葡萄園(天国)において、家族は仲睦まじく不自由のない暮らしを手に入れた(ガラティヤ3:28)。この後の展開は明かされていないが、おそらく一家をスケープゴートにした人々にも、いずれ神の正しい裁き(正しい導き)が訪れることを予感される(イエゼキイリ28:26)。こうして、日本国内では政治的風刺といった側面ばかりに注目が集まりながら、私には信仰に根差す生活の重要性を説くコメディ映画であるような気がしてならない。

 「来りて奥密の葡萄園に工作して、其中に痛悔の果を結び、飲食の為に労せずして、祈祷と禁食とを以て諸徳を行わん。此等に悦ばせらるる工作の主、独り大仁慈なる者は「ディナリイ」を与え、此を以て霊の罪の債を贖う(大斎第四主日の早課、「凡そ呼吸ある者」自調の讃頌『祭日経』p.686)」。

 

※1 シリヤの聖イサアクは「地獄の罪人が神愛を欠いた状態にいるというのは正しくない」と教える(V.ロースキィ『キリスト教東方の神秘思想』宮本久雄訳, 勁草書房, 1986年, p.282)。ロシア人神学研究者のАлексей Ильич Осипов氏は、このような聖師父たちの言葉を基に「地獄の扉は内部から操作できるため、出られない者は誰一人いない」と強調する。http://www.odinblago.ru/posmertnaya_zhizn/21(2018年12月26日アクセス)

※2 世界を造りし者は世界に現れ給えり、暗闇に座する者を照さん為なり。人を愛する主よ、光栄は爾に帰す(神現祭の晩課の讃詞『祭日経』p.288)、夜の有害なる黒暗を逐い、死すべき者の諸罪を滅し、爾の洗礼を以てイオルダンの流より光明なる諸子を出さん為なり(同早課のカノン第四歌頌の讃詞『祭日経』p.322)。

(伝教者 ソロモン 川島 大)