おとめシオンの城壁よ 主に向かって心から叫べ。
昼も夜も、川のように涙を流せ。
休むことなくその瞳から涙を流せ。
立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て 水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
(旧約聖書「哀歌」2:18-19)
涙、泣くことは、聖書に多々、記録されています。
預言者エレミヤは「涙の預言者」です。
祈りそのものが涙だといってもよいでしょう。
預言者としての本分を全うできないことへの悲しみと同時に、信仰者、イスラエルの民のため、その救いと癒しのために涙を流しました。
自分の愛する者のために涙を流す、犠牲の涙を献げる、これが祈りではないでしょうか。
たとえばエレミヤは、信仰の同胞、人を愛し、同じくらい、いいえもっと深く神を愛しました。神の愛に、愛をもって応えました。
かならず神が助けてくださる、たとえわたしたちが神を裏切ったとしても。
それゆえエレミヤはこう言います。
主は、決して あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く 懲らしめても また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。
わたしたちは自らの道を探し求めて 主に立ち帰ろう。
天にいます神に向かって 両手をあげ心も挙げて言おう。
わたしたちはしばしば、両手をあげ、顔もあげて祈ります。
サーロフの聖セラフィムも、ひざまずき、両手をあげた姿勢のまま、涙の祈りを献げました。(画像:大きな岩の上で祈りつづける聖セラフィム)
主、憐れめよ。
主、賜えよ。
これらの祈りは、心の涙をもって祈るものです。
聖ベネディクトは、修道士への規則、戒律のはじめに、
「神を悲しませてはいけない」
と述べています。
もうすでにわたしたちは、幾度も、何度も、救い主、神を悲しませ、泣かせたのではないでしょうか。
神を悲しませてはいけません。
神に喜びの涙をもたらすような信仰生活、生き方、祈りを献げましょう。
(長司祭 パウェル 及川 信)