爾(なんじ)ら、目ありて視ざるか(マルコ福音8:18) わが見るを得んことを(同10:51)
正教会 オーソドックス・チャーチの信仰において、「目(眼)」は特別な意味を持っています。
目を、4つに分類してみます。
第一に、人の目。わたしたちの肉眼です。
第二は、心の目です。心眼と言います。
これは、一流の技術者・職人・運動選手・芸術家あるいはわたしたちの中でも、心と体の修練を積んだ達人・名人が達する「境地」です。
信仰者の第一段階はこの心の目を持つことです。
正教会では「爾に平安」、「衆人に平安」と祈りますが、真に平安の者のみが心の目を獲得します。
さて第三の目は、霊(たましい)の目です。
この霊の目とはいかなるものでしょうか?
霊の目を得る糸口は聖堂にたくさんあります。それはいったい何でしょうか。 聖像(イコン)です。聖像の目です。すばらしいイコンは、平穏で清楚、人に安らぎを与え、心を育てる祈りの聖なる門です。イコンの目を見ましょう。 すばらしいイコンの目は、神の国を見つめています。
この世と神の国をつなぐ目です。人と社会を見ているようでありながら神と天使、生神女マリアと諸聖人を見つめます。そして、この聖像を見ながら祈る人を聖なる場所、天にいます神の宝座へと連れていきます。
イコンの恵む霊の目は、神の目へと人を成長させます。
そうです。もっとも大切で重要な目が「神の目」です。
霊の目を自らのものとした信仰者は、神の目を認識し、自覚し、神の目を体験します。創世記1章はこう語ります。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の聖神(せいしん、霊)が水の面を動いていた」
天地創造の光景を見た者はだれか。
創造された宇宙、光る星、暗黒の星、生命を宿している地球のような星を、俯瞰(ふかん)しておられるのはだれでしょうか。
神です。
神の目が天地創造の光景を、まるで人が見たかのように描写しているのです。
ハリストス(キリスト)神の子が人となったとき、藉身(せきしん)されたとき、人は霊の目から成長して神の目を獲得できるようになったのです。
教会では神の目を意識させるために、たとえば戈(ほこ)、星架に目を刻むことがあります。多目のヘルウィムは、全身これ目でありまして、神の目を体現します。
第四の目は「神の目」なのです。
(つづく)
[イコン「人の手にて画かれざる救主」自印聖像 15世紀 ロシア]
(長司祭 パウェル 及川 信)