聖神降臨祭を祝讃申し上げます。
聖神(せいしん 聖霊)の降臨とは何なのでしょうか?
いったいどういう状態なのでしょうか?
聖像(イコン)には火の玉のような炎が、信仰者の頭上に画かれています。 たとえば、赤ちゃんが生まれて息をし始めるとき、赤ちゃんは水を吐き出して「おぎゃあ」と泣き出します。息をし始めて、初めて地上で生活する人となります。水をたっぷり飲んで溺れた人が、気道や肺の水を吐き出しながら空気呼吸を始めるようなものです。
生き始めるためのたいへんな苦しさがあり、喜びもあります。
でも苦痛と歓喜があり、息を吸って吐いての往復運動がはじまり、これがあって人間になるのです。人として生き始める生命のスイッチが、かちっと入るのでしょう。(京都生神女福音大聖堂、聖障の聖神降臨祭イコンを掲載)
聖神は生命(いのち)の息、神の息です。
脳死とか心臓死とかいう言葉が頻繁に使われるようになるもっと昔、永眠、死を「息を引きとる」と表現してきました。
古風な言い回しですが、正教会の永眠を思う時、「息を引きとる」という表現は非常に暗示に富んでいると思いませんか。
動物も植物も大地も海も、みな息をし呼吸をしています。
正教会(オーソドックス・チャーチ)の聖堂は、ドーム(円い天蓋)が象徴的です。この聖堂の丸、円は、地球、空気の層、大気を表します。聖なる宇宙空間を想起させます。
わたしたちは祈祷、祈りに香を薫らせます。
以前わたしの管轄した九州、熊本県の人吉正教会の聖堂には明かりがありませんでした。いまどき珍しいことに電気を引いていなかったのです。
(いまは充実したすばらしい聖堂があり、電気の照明もあります)
日の短い冬など、晩祷の終わりごろ、暮れ染まった濃い夕闇のなか、ろうそくの燈火だけで、手探りに、転ばぬように足もとを確かめながら、ゆっくりお祈りをした記憶が甦ってきます。
夜の闇は怖い雰囲気を湛えながらも、神の国への近道があるようにも感じてしまいます。それはおそらく想像しがたい、不思議な感覚です。それもたった一人で行う晩祷が多かったので、余計に印象的です。
昼間はそれほど感じませんが、夜の祈りの時、薄暗い聖堂の空間にロウソクの灯火、ちいさな光が煌めき、乳香の煙が漂う光景は、大きな写真で見た銀河系というか、まるでマゼラン星雲のなかにいるようでした。
香の雲は、神の国へとつながっています。わたしたちに神の国を見せます。神の国へと導いているかのようです。
聖堂は天然自然を、神の天地創造を喚起・想起させる小宇宙でもあります。聖堂には生命の息、聖神が充満しています。
祈りの原点は、じつは呼吸、息です。
ハリスティアニン、正教徒は、祈りが聖神の充満、神の息の呼吸であることを自覚し、憶えておかねばなりません。
(長司祭 パウェル 及川 信)