■2018年1月 洗礼 神の顕われる時(神現祭)

わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履き物のヒモを解く値打ちもない。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、
その方は聖神(聖霊)で洗礼をお授けになる。
(マルコ福音書1章参照)

預言者、前駆 授洗イオアン(ヨハネ)はこう語りました。

わたしたち人間は、何かを待ちます。東京・JR渋谷駅前の忠犬ハチ公は、最愛のご主人様の帰りを待ちましたが、わたしたちは、何を、誰を、待つのでしょう。

ある評論家は、ほとんどの日本人は、「何を」ではなく、「誰が」に固執して判断する。その結果、たいへんな被害を受けたとしても……と言いました。

どんなに社会に、あるいは自分に良い結果をもたらす提案でも、その内容よりも、「誰が」それを提案、実行するのかに力点を置くというのです。

それは、その人がどんなに過去の過ちを後悔して、深く悔い改め、みんなのためになることをやろうとしても、「ああ、あいつがやるのか。信用できない」という先入観・結論が、最初にあると言うことでしょう。

おそらくこれは、日本ばかりでなく、世界中の人々の傾向だと感じます。

逆に言うと、大がかりなネズミ講のような詐欺商法やオレオレ詐欺に、人が簡単にコロリとだまされてしまうのは、生きる目的である「何を」よりも「誰が」に固執し過ぎているからだとは言えないでしょうか。

木を見て森を見ない、山裾の丘を観て、頂上を含む山全体を観ない人が多すぎるからなのでしょう。

ほんものの詐欺師は、格好良く、甘い言葉で人を誘う、なんだか立派な人物に「見える」ものなのです。

やはり「人は人を待ちたい」のです。わたしたち日本人が「誰が」に固執して生きているのは、あたりまえの正直な人生真理です。

ということは、たとえばイイススは、生きる目的「何を」と、「誰が」なすべきかを、密接不可分に成し遂げた、究極の人物であるということが言えます。
神が人となられた、イイススが約2千年の昔に人の子として降誕されたのは、人が、人の形をした、人格を持った救い主、真実の人を待っていたからです。
神様は、「人を待っている」人の願いをかなえられたのです。

人は、道路標識の看板や標語のような人生目的ではなく、神の人の語りかける温もりに満ちた「生きている言葉」「寄り添う体」「差し伸べられる腕」「やわらかな手」、わたしたちを抱き締める優しい指の感触に安心します。

イイススとは、神様とはそういう安心できる方です。

わたしたちが待っている救いの神は、もうここにいます。

洗礼の日、神の顕われる「神現」それは「真の人の到来」をわたしたちに体験させます。

もう待たなくてもいいのです。イイススはここにおられます。

+上掲の聖像(イコン)「救主の神現(洗礼)祭」

(長司祭 パウェル 及川 信)