梅の花が咲き、もうじき桜の季節が訪れると、花見そして行楽の季節、春のピクニックにお弁当持参で行く人も多いのではないでしょうか。
大昔、紀元前のことです。メソポタミアやエジプトでは、学校へ通う子供へ、親がお昼時にお弁当を届けたと言います。たいてい栄養分豊富な雑穀パン・黒パンを2こ、そして飲み水。よい飲み水が手に入らない地域では、アルコール度数のないノンアルコールビールを子供に持って行きました。現代のノンアルコールビールブームの先駆けといってもいいですね。
じつは聖書には、意外や意外、お弁当を待つ話がたくさん登場します。
旧約聖書サムエル記上17章、イエッセイ(エッサイ)の子ダヴィド(ダビデ)が宿敵ペリシテ人の豪傑、巨人ゴリアテを倒した話。このときダヴィドは戦場にいた兄たちにお弁当を届けるよう父親に命じられています。
ダヴィドがお兄さんたちに運んだお弁当は、炒り麦約23kg、大きなパン10個、そして兄たちが所属している部隊の隊長さんへのプレゼント、大きなチーズ10個です。隊長さん、つまり上司にお弁当のプレゼント、付け届けをするところなど、日本風の親心を感じさせます。
新約聖書の福音書が掲載している「5つのパンと2匹の魚」あるいは「7つのパン」(マルコ8章)は、救い主イイススのもとに集ったまま帰ろうとしない人々にイイススと弟子がパンと少しの魚を配る話です。
この奇蹟、イイススや弟子が自分の空腹をさしおいて、まずは自分たちのお弁当を人々へ食べさせようとした奇蹟で、このように解釈することができるのではないでしょうか?
イイススと弟子がパンや魚を焼いたりして配りだしたところ、集まっていた人が我も我もと自分のふところのお弁当を出し始めたのではないでしょうか。一つ一つは小さな力でも結集すると大きな力になります。
関西のご婦人方がいつも「飴ちゃんを携帯している」ような風景です。
福音的「飴ちゃん交換現象」といってもいいでしょう。しばしば奇蹟はこうして起こっていくような気がします。自分よりも他人、隣人を心配すること、心配りから始まる奇蹟もあるのではないでしょうか。
多くの人の心と思いの結実として起こる、神様の奇蹟を実証します。
もうひとつ、神様は苦難・困難にある人に対しても、お弁当を贈ります。
旧約聖書列王記上17章では、神様の正しい言葉を伝えたため、時の国王から迫害された預言者イリヤ(エリヤ)が、ヨルダン川沿いの山深い渓谷に身を隠す場面が出て来ます。人気のない川沿いの洞穴に潜んだイリヤは、孤独感に身を切られます。このときイリヤは小川の水を飲み、朝夕の2回、数羽のカラスの運んでくるお弁当、パンと肉(おそらく干し肉)を食べて命をつなぎます。 どんな困難、苦境、逆境にあっても、かならず希望の光、神様の恵みはあります。聖書は、そして教会は、不思議で神秘の力に満ちたお弁当の話をたくさん記録しています。
聖堂の聖パンと葡萄酒、聖体・聖血も、神様からのお弁当です。
神様は待っているわたしたちに、お弁当を贈ってくださっています。
(長司祭 パウェル 及川 信)