「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、 永遠の命に至る水が湧き出る」 (イオアン(ヨハネ)4章参照)
新たな「水の壁」 帰還の奇蹟
わたしたちは常に自分個人が救われたいと思います。キリスト教は家の宗教ではなく、個人的信仰だから洗礼を受け入信したと言う人もいます。
そうでしょうか。
人の生、信、心、精神、信仰は、自分のものであって、じつは個人の秘匿物ではありません。
わたし、あなたが水を満たす壺(つぼ)だとすると、神の恵み「水」を生涯かけて充たしていけば溢れていきます。溢れる恵みは多くの人を潤し、分かち合う人の生活・人生を豊かにします。
ヨルダン川の奇蹟は、信仰の先輩らの体験のたんなる追憶の体験ではなく、「神の時、神の恵みの共有」です。神の時という水に充たされた時、わたしたちは、苦難と試練に立ち向かいます。
神は生きておられる、あなたは一人孤独ではない、その真実が信仰者を感動させ、甦らせます。
紅海の水の壁が旅立ちの奇蹟だとすると、ヨルダン川の水の壁は帰還の奇蹟だともいえます。
安息の地への帰還
パニヒダでわたしたちは痛切に祈ります。
「誘いの嵐にて浪の立ち上がる世の海を見て、なんじの穏やかなる港に着きて呼ぶ。憐れみ深き主や、わが生命を滅びより救いたまえ」
紅海の荒れ狂う海を眺めて救いを求めた人に、神は通過可能な海の門、水の通路を恵みました。
「生命の原因たるハリストス神は、生命を施す手をもって、死せし者を暗き谷より出だして、復活を人類に賜えり」
ヨルダン川の水の壁を間近に見て歩いた人は、新たなる生命の港に着いて歓喜するのです。
信仰の水源を探し求め、分かち合う
聖書や祈祷文などばかりでなく、信仰生活の中にあって、わたしたちは信仰の水源を探ります。
ニッサの聖グリゴリーはこう語っています。
「霊魂は自分と同類でより神的なものを見上げて、存在するものの始源を探求し求めることを止めないだろう。存在するものの美しさの源泉は何なのか。その力はどこから溢れ出るのか。存在するもののうちに現れた知恵を溢れ出させるものは何か。その知恵はあらゆる思考を発動させ、また諸観念を探求する全能力を動かして、探求の対象を把握させるべく働く」
「丁度湖水と一緒に地中から湧き昇ってくる空気が湖の底のあたりに留まらずに、泡になって同類のもの(大気)を目指して上方に吹き上がっていくことを考えてみよう。それが頂点の水面を通り越して大気に混じったところで、その上方の運動は止むことになるが、神的なことを探究する霊魂もそれと同様なことを身に受けるのである」
(大森正樹他訳『雅歌講話』新世社)
生きるのは、たいへんです。楽しみもありますが、つらいことも多いでしょう。
でも共に手を携え、両手を差し伸べ、神の拓かれる水の壁を通っていくことができます。
そのとき水の壁は、希望の光とあなたの心を奮い立てる勇気の源泉となるでしょう。
水の壁に戦慄し、たじろいではいけません。
わたしたちに洗礼の水の恵みを伝えた前駆授洗者イオアン(ヨハネ)はこう告げています。
「主の道を整え備えよ、その道筋を真っ直ぐにせよ」、と。
この進路の先に信仰の水源が待っています。
信仰の水源の継承 次世代への水路
信仰の水源は清く保たれ、次の代へと受け継がれます。信の水路は整備され、さらにたくさんの世界・人々を温かく癒し、心身を満たします。
教会は今も昔も信仰の水源の保護者です。
これからさらに数多くの水源を整備し、救いを求める人を招き続けるでしょう。
わたしたちは、信の水路の保護者、水先案内人として、また生命の泉を秘めた信仰者として、心して生活いたしましょう。
(長司祭 パウェル 及川 信)