■2025年2月 読書と信仰 23 キリストの面(かお)

古代教会におけるキリスト論争の結果、キリストは、
本質的に父と同じであると公会議において定義された。
これによって若々しいロゴスの姿は見られなくなり、
長い髪を分け、髭をたくわえた威厳のある姿がキリス
ト像の特徴となる。

前述のキリスト論争以外に、「人の手によらない」と
言われる像が現れてきた。それは多くの信仰深い人々
が「本物」のイエス像を憧れ求めたからである。そこ
から、民間の信仰がこの「人の手によらない像」
(Acheiropoieten)の伝説を作り出し、難しいキリス
ト論の神学に一石を投じたのである。イコンは、主の
栄光そのままの「反映」であると考えられていた。

東方教会では、この「人の手によらない像」の伝承は
「聖なるマンディリオン」となり、ラテン教会ではヴェ
ロニカの絵として発展してきた。
(「20.人の手によらないお姿」『キリストの面』)

117のテーマに編集された本書『キリストの面』は、興味深い考察に彩られています。
でもわたしたち正教会の信徒は、キリスト像が、壮年のキリスト像のみではないことを知っています。
主の降誕祭の聖像(イコン)、飼い葉槽に寝ている乳児、赤ちゃん。
生神女マリアに抱かれている幼児のお姿。
羊飼い、牧者としてイメージされる青年や若者としてのイエス。
光り輝く宝冠をいただき、地球儀を手にしているキリスト像。
全能の救世主として描かれる威厳に満ちた壮年の坐像。
髪の色もいろいろで、こげ茶であったり、黒髪であったり、長い髪がカールしていたり、背中にのびている後ろ髪であったりします。
総じてりりしく、中肉中背、やや細面です。
さらに福音書を読むと、立体的な生き生きとしたイエス像が浮きあがります。
みんなに囲まれて語り合うイエス。強い口調で諭す、あるいはユーモアたっぷりに笑みをたたえているイエス。
理不尽な出来事や主張に怒ったり、叱ったりするお姿。
旅をし、足を洗い、飲食をし、ときに涙し、そして祈る。
そうした生きている救い主の表情と感情の豊かさが、わたしたちを虜(とりこ)にします。
どこか遠い異星に暮らすお方ではなく、より添っておられる、わたしたちの恩師がいます。
耳を澄ますと声がきこえてきそうです。
息づかいが、ため息が、笑い声が、ストレートにわたしたちに語りかけることばが、こころとからだがときめかせます。
さしのべられたイエスの手の温かさと厚み、やさしい眼差しが、わたしたちをいやし、助けます。
いろいろなキリストの面が、わたしたちを救い、復活の生命、永遠への道をひらいてくれます。

「キリストの地獄降り」(陰府に降りる)は東方教会
独特の復活の絵である。復活は人間の救いの業として
受け止められるものであって、イエス個人の生涯の
〝出来事〟として理解されるものではない。十字架
で死んだ生命の主は、死の夜地獄に降りて、アダム
以来「神と共にある」ことのできる日(救い)を待ち
望んでいる正義の人々の死の門を開放する。

まるで記念碑のような非常に大きな絵の中心には、
すらりと背の高い人物、キリストの姿がある。光り
輝く衣をまとったキリストが手をさしのべている。
全人類の代表として墓から引き上げられる復活のア
ダム。そして、キリストの右手、肩、ひるがえった
マントの端から、右上隅の切り立った岩肌までが、
斜めに対角線上に描かれている。死の世界と生命の
世界とのかけ橋は十字架である。死のしるしがその
まま命の道になったのである。
(「22.キリストの地獄降り/復活の図」『キリストの面』)

(長司祭パウェル及川信)

+ゲオルグ・ニュルンベルガ  監修 / 関本肇
『キリストの面』音響映像グループメディアセンター1997年初版

このコーナーで取り上げる書籍、絶版や入手困難な本もあると思います。
ご寛宥ください。