「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる(オシヤ6:3)」。私たちの住むこの世界は、時として不思議な天気に包まれます。けれども、「いと高き天(聖詠148:4)」や「天の上にある水(同上)」ですら主を讃美するのが事実であるならば、「地は震え、天は雨を滴らせ(聖詠67:9)」るなど、自然が特別な日に相応しい表情を見せるのも無理はありません。復活大祭を間近に控えた受難週間の終盤以降、京都教会の位置する中京区では、幾度となく奇怪な気象現象が起こりました。
聖大木曜日の夕方、聖堂にて「十二福音」が行われます。これは、四つの福音書から主の受難にまつわる場面を全部で十二箇所抜粋し、様々な祈祷文に挟んで読み進めるお祈りです。第六福音を唱え終わる頃、手塩にかけてきた弟子に裏切られたハリストスは、一方的な裁判に付されて十字架刑に処されます。ちょうどその時、窓の外がただならぬ色に染まり始めたのです。換気のために開けていた扉から顔を出すと、辺り一面は赤紫色に覆われていました。地元紙によれば、当日この地域が「24時間雨量、4月の観測史上最大を記録(京都新聞2021年4月29日)」したことに起因するそう。ともあれ、この「赤紫色」の空は、奇しくも主が着せられた辱めの衣装と同じ色彩ではありませんか(マトフェイ27:28, マルコ15:17, イオアン19:2)。ゆえに、それはあたかも「雲を以て天に衣する者は偽の紫を衣せられ(聖大金曜日早課 第十五倡和詞)」た様子を私たちに想起させるようでした。
続く第七福音の内容は、さらに臨場感を増します。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マトフェイ27:46)」。ハリストスが息を引き取られる寸前に放たれたこの叫び声。これに呼応して「全地は暗くなり、それが(昼の)三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた(ルカ23:44-45)」とされます。結局、造物主の死を悼むかの如く哀愁を帯びた空模様は、残りの福音を読了するまで広がっていました。
これだけではありません。翌日の祈祷中、またしても私たちは急激な天候の変化に見舞われたのです。聖大金曜日の晩には、「眠りの聖像」が聖堂中央に安置され、主の葬儀が営まれます。出棺や葬送を象る「十字行」を終えて聖堂内に戻るや、今度は祈祷の響きが遮られるほどの豪雨が屋根を叩きつけました。「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される(イエレミヤ10:13)」と教えられます。従って、「激しい風が彼ら(不信仰の者)に立ち向かい、嵐となって彼らを吹き散らす(知恵書5:23)」のも、「不法はすべての地を荒れ地に変え、悪行は権力者たちの座を覆す(同上)」ことへの警鐘なのでしょう。
とはいえ、私たちにはさらなる啓示が与えられています。「謊(いつわり)なく我等と偕に世の終末まで在すを約し(聖大パスハの主日早課 第九歌頌)」てくださった方のおかげで、今や「我等信者は此を冀望の固として喜ぶ(同上)」ことが可能です。すでに復活大祭を祝った日没前、東の空に大きな虹が架かりました。すなわち、「雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる(創世記9:13)」という主の御言葉に適うものでしょう。そして、「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった(イエゼキイリ1:28)」に違いありません。だからこそ、私たちは「豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる(ザハリヤ10:1)」万物の造成主に、確かな信仰を抱いて洗礼を受けるべく呼び掛けるのです。「釘せられざる先に辱の紫布を衣せられて、我の為に裸体にして釘せられしハリストスよ、爾の国の衣を我に衣せて、永遠の恥を免れしめ給え(聖枝週間火曜日晩課 挿句の讃頌)」と。
(伝教者 ソロモン 川島 大)