われ古(いにしえ)の日を想い、
およそなんじの行いしことを考え、
なんじが手の工作(わざ)を計る。
わが手を伸べてなんじに向かい、
わが霊(たましい)は渇ける地の
ごとく、なんじを慕う。
(旧約聖書「聖詠」142:5-6、「詩編」143:5-6)
ハリストス生まる!
按手(あんしゅ)という言葉があります。
正教会では右手をのせて、人を祝福することを意味します。
手をのせるところは、たいてい頭、額(こうべ)であることが多いようです。
さて19世紀フランスの作家、ジョルジュ・サンドの小説「愛の妖精」(邦訳名)を読んだのは、小学校5年生の時でした。
主人公の女性が病気などで衰えた人のかたわたで、その人の癒やしを祈ります。
そのとき手を病人のうえにのせ、心をこめて癒やしを祈るのです。
恋愛小説の微妙な機微に感動しながらも、ちょうどそのころ母を病気で喪ったばかりであったので、こういう人が母のそばにおれば、母が癒やされ、治ったのかもしれないと、思いました。
自分がそういう存在ではないことが、とても悲しく残念でした。
(聖像「腰の曲がった婦人をいやす救主イイスス」)
正教会の「聖傅(せいふ)」礼儀には、こういう祝文があります。
ああ主や、天よりなんじが医療の力を降して
なんじの僕婢の体にふれ、熱を消し、苦しみ
をとどめ、およそ潜むところの衰弱を駆り、
その医師として、彼を病の床(とこ)より、
悩みの褥(しとね)より起こし、彼を健(すこやか)にし、
彼を全うして、なんじを喜ばせ、なんじの旨を
行う者として教会に与えたまえ。
「病は気から」という言葉がありますが、「気」とは単なる気分、気持ちではなく、そのひとの人生、生き方を支える勇気と希望、不屈の精神の有りようを表す言葉ではないでしょうか。
勝てない病気があるのかもしれません。
でも神のあたえたもうた人生そのものが消失しているわけではありません。
たいへんな苦しみや痛みがあるかもしれません。
でも生きる勇気と希望をくじけさせてはいません。
あきらめかけているかもしれません。
しかし神が支えておられるかぎり、わたしたちは不屈です。
神が手をのせるとき、わたしたちは生き返り、生き直すことができます。
神の手から救いの光が放たれ、わたしたちは手の光に導かれ、温められ、穏やかな光に満たされて神の国へと向かうのです。
崇め讃めよ!
(長司祭 パウェル 及川 信)