■2023年12月 再起

「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。ハリストスが厳しく語られたルカ伝13章の前半には、これを示唆するエピソードが二つ記されています。

まず一つ目が「実を結ばないイチジクの木」です。ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。次に二つ目が「十八年も腰の曲がった女性」です。安息日に、(主が)ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イイススはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。

問答者聖グリゴリイは、三季も実を結ばなかったイチジクの木と、十八年間も腰の曲がったままの女性について、両者はいずれも「人間の本性の象徴」であると説明します。園丁は教会の指導者、イチジクの木はこの世の権力者です。善行の実を結ばない(自分の務めを果たそうとしない)イチジクの木は、その存在自体が他人の成長を阻害する要因になりかねません。権力者の配下にある人々は、目上を模範として悪しき習わしに染まり、真理の光が奪われることで神に対して冷淡となります。高く聳える木の影が上から覆いかぶさって日光を遮るため、根元の土地はすでに痩せこけた状態。園丁がいくら叱咤激励しようとも、改心させるのはもはや至難の業です。また、神に似せて創造されたはずの女性は、自ら進んで品位を保ち続けずに直立の姿勢を失いました。つまり、地上のものに目や心を奪われて天上のものを渇望しない態度が低劣な欲望を増幅させ、とうとう精神の正しさまでをも歪めてしまったのです。これらはまさに、「人若し全世界を獲とも、己の靈を損わば、何の益かあらん(マトフェイ16:26)」という御言葉を表しているかのように思われます。

さて、神の命により植物が誕生したのは天地創造の三日目。一方で、人類は植物よりも遅くに神の創造を受けており、これは六日目の出来事です。聖書に名指しされた最初の植物「イチジク」が登場する日でもあります。それらは「善」あるいは「甚善」なるものとして誕生しました。六日目すなわち金曜日は、人類の始まりであるとともに、「アダムが地堂にて犯しし罪を第六日の第六時に十字架に釘つけしハリストス神(第六時課、讃詞)」によって、旧来の人間性の終焉と新たなる永遠の生命の開始を告げる日としても、後に知られるところとなっています。主がイチジクの実を捜しに来られた三回は、①律法以前には自然の法を通じて、②律法の時代には掟を通じて、③恩恵の時代には数々の奇跡を通じて、忍耐や勧告をしながら人間の本性を尋ね求めておられたことを意味するそうです。また、六を三倍した数が十八ですから、腰の曲がった女性もこの三つの時代全てにおいて完全な務めを果たそうとせず、病気を患い続けてきたことが窺えます。

けれども、人は痛悔の涙を流して善行に努めようと悔い改めた時、滅びへのカウントダウンは止まり、まるで根元に肥やしをもらった木のように再び実を結び始めます。聖使徒パウェルは「神の全備の武具を衣よ(エフェス6:11)」と教えますが、掟に固執して理論武装をしなさいという意味ではありません。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべき」と言い放った主を支持し、自らの行動においても隣人愛を示せる者となるべく、私たちは謙遜な心を育んでまいりましょう。

(輔祭 ソロモン 川島 大)