■2023年8月 孤独

 「私たちが「からし種一粒ほどの信仰」を持ち合わせるならば、「『ここから、あそこに移れ』と命じる」ことで山をも動かせる(マトフェイ17:20)はずです。ところが、たった一人の癲癇患者でさえ師匠のごとく癒せずに悔しがる弟子たちが、福音書には登場します。彼らは恐る恐る主イイススにその理由を尋ねました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(同上17:19)」。

 すると、返ってきた答えは冷徹ながらも「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。もちろん、弟子たちの不手際を咎めることや、ましてや彼らの人格を否定することが目的ではありません。すなわち、師匠として「この種のもの(悪魔)は、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と伝え、弟子たちの務めを鼓舞するためでした。

 歌手の平原綾香さんを代表する楽曲に「Jupiter」があります。英国の作曲家・ホルストの名曲に、吉元由美さんが日本語の歌詞を付けたものです。毎年これをテーマソングに据えた花火が、新潟県長岡市で盛大に打ち上げられます。私の父は長岡で生まれ育ち、例年8月を迎えると家族や父子で父の故郷へ里帰りをするのが我が家の恒例行事でした。けれども、その時期はお盆期間ではなく、初旬の2日、3日に合わせての帰省です。なぜなら、この2日間には国内でも屈指の花火大会が行われるから。この「長岡まつり大花火大会」において、ある年を境に「復興祈願花火フェニックス」が打ち上げられるようになりました。それは2004年に発生した内陸直下型の新潟県中越地震。被災者たちの心の支えになった音楽と言われるのが、当時流行していた平原綾香さんの「Jupiter」でした。

 教会で奉職する現在の私にとって、非常に印象的なフレーズが含まれます。「夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」。至聖三者の神様以外を特別な存在として崇拝する、あらゆる出来事を闇雲に信じることは、正教会の本質とはかけ離れています。「我信ず一の神父全能者…」で始まるニケヤ・コンスタンティノープル信経。洗礼を受ける時や、聖体礼儀の聖変化を前にして私たちはこれを唱えます。端的にまとめるならば、日本を代表する詩人・谷川俊太郎氏の言葉に一致します。「信じることに理由はいらない」。まさに、信経には正しく信じるべき内容こそ列挙されているものの、皆それぞれがそこへ至る経緯については一切問われていません。では、読み上げる事項を心に留めることでいかなる効用が得られるのでしょうか。それは、「信じることでよみがえるいのち」です。当然ながら、ハリストスの復活に限定されるものではありません。主は私たち全員を救われるために、私たちと同じ人となられました。ですから、「信じることは生きるみなもと」と言えるのです。

 ゆえに、ハリストスの復活した姿の先取りである「変容」を目撃した三人の弟子のうちの一人、福音記者イオアンは次のように書き記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(イオアン3:16-17)」。すなわち、「Jupiter」に登場する「私たちは誰も ひとりじゃない ありのままでずっと 愛されてる」の箇所にリンクされるのではないでしょうか。

 とはいえ、悪魔を遠ざける「祈りと斎」は、終始孤独な闘いのように思われます。しかし、だからこそ「愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない」のです。旧約の預言者たちはこれを自ら証明し(出エギペト34:28、列王記第三巻19:8など)、新約のハリストスはさらに、人類の本性が悪魔の試みに打ち勝つことのできる証を完全なものになさいました(マトフェイ4:2, 26:26-28、マルコ22:19-20)。ですから、私たちも主の御許にて預言者たち使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、「光の子(イオアン12:56)」であり続けなければなりません。

(伝教者 ソロモン 川島 大)