以下は、先備聖体礼儀の編纂者とされる問答者聖グリゴリイによる降誕祭の説教要約です。
「至高きには光榮神に歸し、地には平安降り、人には惠臨めり(ルカ2:14)」。私たちの救い主が肉体をとってお生まれになるまで、人々と天使たちとの間には不和がありました。なぜなら、人類の先祖の罪のゆえに、また毎日犯している罪のゆえに、天使の明るさや清さから遠く離れ去ってしまっていたのです。けれども、私たちが自らの王を認めたので、天使たちは自分たちと同じ国の民として人々を迎え入れました。天上の王が、地上的なものである人間の肉体をとられたのを見て、高みの天使たちは、もはや私たちの卑しい身分を見下すのを止めたのです。こうして、天使たちは人々と再び和睦し、以前の不和の気持ちを捨て去りました。そして、以前は弱く卑しいものとして見下していた人間たちを、今や仲間として尊敬しています。
私たちは、神様の永遠の予知によって、天国の民でもあり、神様の天使たちに等しい存在でもあります。従って、何か不潔な行いによって自分を汚したりしないように注意しましょう。徳行によって私たちの品位を保持しましょう。いかなる不節制にも汚されないように、いかなる汚らわしい考えも私たちを告訴しないように、悪を働いて良心の呵責を招かないように、嫉妬心というサビに腐食されないように、高慢によって膨れ上がらないように、野心によって地上的な快楽を求めて引き裂かれないように、怒りによって燃やされないようにしましょう。というのは、人間が「神々」と呼ばれたからです(聖詠81:6)。よって、悪徳に逆らうことで、あなたに帰せられた神様の名誉を守らなければなりません。なぜなら、神様が私たちのために人となられたからです。
主の降誕や受難に際して現れた全ての「しるし」を考察する時、預言が与えられても、奇跡が行われても、主を認めようとしなかった一部のイウデヤ人たちがどれほど頑固な心の持ち主であったか、考えなければなりません。確かに、大自然のあらゆる要素は、自分たちの創造主の到来を証ししました。擬人法的な表現を用いれば、大空は主を神様として認め、直ちに星を送りました。海もそれを認め、主が自分の上を足で歩けるようにしました。大地もそれを認め、主の死に際して震動しました。太陽もそれを認め、その光を隠しました。岩と壁もそれを認め、主の死にあたって砕けました。陰府もそれを認め、自分が拘禁していた死者を釈放しました。しかしながら、感覚を持たない大自然の全ての要素が主であると感じとったハリストスを、不信仰なイウデヤ人たちは相変わらず神様と認めようとせず、岩よりも固い心を砕いて痛悔しようとはせず、前述のように、大自然の諸要素が「しるし」と亀裂とによって神様であると叫んでいたハリストスを認めようとはしません。
私たちの国は楽園です。ところが、人々がイイススを知った後、私たちには楽園から出て来た時と同じ道を通って楽園へ帰ることは禁じられています。なぜなら、傲慢と不従順とによって、また可視的な事物を追求し、禁じられた食べ物を食べることによって、私たちの側からこの国を離れ去ってしまったからです。それでも、私たちは涙、従順、可視的な事物の軽視、肉欲の制御によって、その国へと帰らなければなりません。そのために、私たちは別の道を通って神様の国へと帰って行くのです。つまり、私たちは快楽によって楽園の喜びから離れ去ってしまいましたが、涙を流すことでその喜びへと帰るように呼びかけられているのです…罪のゆえに涙を流しましょう。そして、聖詠者ダワィドの言葉を借りて、「み前に進み、〔罪を〕告白しましょう」(聖詠94:2)…誠実に主の降誕を祝うのならば、神様の掟を畏れましょう。ダワィドが「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊(聖詠50:19)」と証言している通り、神様の御心に適ういけにえとは「罪の痛悔」なのです。私たちの過去の罪は、洗礼を受けた際に洗われました。しかしながら、私たちは洗礼の後にも多くの罪を犯します。けれども、もう一度洗礼の水で洗い清められることは出来ません。とはいえ、洗礼の後に生活を汚したとしても、涙によって心を洗うことは可能です。そうして、別の道を通って本来私たちがあるべき神様の国、以前快楽によって私たち自ら離れ去ってしまった国へと、苦難に悩みつつ帰りましょう。
(伝教者 ソロモン 川島 大)