■2022年11月 人間の体シリーズ 足 3 つまずく 躓く

わたしの信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼(いしうす)を首にかけられて、海に投げ込まて
しまうほうがはるかによい。もし片方の手があなたをつまず
かせるのなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったま
ま、地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても
命にあずかるほうがよい。
(新約聖書「マルコ福音書」9:42~参照)

 イイススは語ります。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」(ルカ17:1)
 祈りの基本は、じぶん以外のほかの人のために祈ることです。
 たとえば、ゲフシマニア(ゲッセマネ)の祈りで、主イイススは、
「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)にかなうことが行われますように」(マルコ14:36)
 と祈ります。
 神の子として献身し、犠牲となり、すべての人を救うための祈り。
 このイイススの祈りは、わたしたちが祈るとき、つねに念頭におかねばならない心を教えてくれます。
 この祈りをさまたげ、奉仕と献身をあざ笑い、ひとの信仰を誤らせるように仕向ける「つまずきの石」を置く者は、みずからのつまずきに気づいていません。
 イスカリオテのユダのように、つまずきの石を、じぶんで抱えている人、それらを捨て去る勇気を発掘できない人は不幸です。
 最大のつまずきの石は、不信、「疑い」です。
 疑えば疑うほど、ひとは、ひがみっぽくなり、恨んだり憎んだり呪ったり、嚇怒(かくど)するようになります。
 疑えば疑うほど、ひとは心がもろく、弱くなっていきます。

 祈れば祈るほど、人は強くなります。
 その強さは、暴風にあおられても折れたり、倒れたりしない、しなやかで強靱な、不屈の勇気、希望を宿します。
それでは、じぶんが救われないではないか、犠牲ばかりなのか……。
 ちがいます。
 ほかのひとが救われ、神にあたえられた命を全うするとき、わたしたちも共に生きます。
 祈りは、他者も じぶんも 生かします。
 疑わずに 人を、神を 信じ、愛することが、つまずきの石を乗りこえさせます。
 祈りのひとは、つまずいても起き上がり、立ち直る、よみがえりの生き方をえようと、渾身のちからをふるいつつ けん命に生きることでしょう。     

(長司祭 パウェル 及川 信)

※聖像(イコン) 「イイススへの悪魔(サタン)の誘惑」