「死の權は已に人人を捕うる能わず、蓋ハリストスは降りて其力を敗りて滅し給えり。地獄は縛られ、預言者は同心に喜びて呼ぶ、救世主は信に居る者に現れたり、信者よ、復活して出でよ」。地獄の中で苦しむ金持ちがふと見上げると、遥か彼方にアウラアムの傍らで安らぐラザリの姿が目に留まりました。全身できもので覆われ、かつて彼が住んでいた家の門前で、犬と共に残飯を漁っていた生前のラザリ。これまで知らん顔で生きてきた金持ちには、どうして死後に立場が逆転しまったのか、自分の置かれた状況を全く理解できません。
それもそのはず、彼の生き様を振り返れば、普段から余所行きの服装を身に着けて豪遊する日々。身近にはやっとの思いでその日暮らしを営む貧者が居ることに気づきながらも、「隣人愛」の欠片すら示さなかったのです。とはいえ、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われるほど、金持ちにとってそれが難しいのもまた事実。なぜなら、貧乏人には貧乏人なりの苦労があるように、富豪には富豪なりの自負があるからです。とりわけ、人並みならぬ努力の末に現世での富や名誉を手にしたならば、他力本願で生きているかのように思えて仕方のない乞食になど、財産を簡単に分け与えて堪るものか、というのが本音でしょう。
しかしながら、この「肉において見えを飾ろうとする者たち」は、一体誰から現在の幸福を享受し得たのでしょうか。最初から豊かではなかった者にとって、貧しかった時代に手助けをしてくれる人物と巡り会えたからこそ、浮上のきっかけを掴めたはずなのです。また、金持ちが裕福な日常を楽しむ裏側には、不要な仕事など存在しない、と言っても過言ではないほど様々な職業人の働きがあります。当然ながら、彼らの生活が成り立たなければ金持ちはただの資産家に過ぎず、他人が羨むほど快適な暮らしなど送れません。それなのに、この富豪は感謝の気持ちを隣人への愛で示さなかったのです。そこで、神様は「愛の鞭」を加えられました。
肝心な点に盲目である金持ちは、自らの窮状のみを顧みてアウラアムに次のような提案をします。灼熱の地獄に苦しむ自分の許へラザリを遣わし、舌を冷ましてほしいと。それがあえなく断られると今度は、遺された兄弟の許へラザリを遣わして彼らの改心を促してほしい、と懇願しました。しかしながら、本当に悔改が必要なのは五人の兄弟ではなく、この金持ち自身です。
そもそも、ラザリは死後に及んでまで金持ちの召使いではなく、元来彼と同じ神様の被造物。また、生前の行いをいくら反省しても、過去は変えられません。けれども、彼にはまだ神様やラザリに対する謝罪の言葉を述べること、他人の力を当てにするのではなく「自ら救ってほしい」という姿勢を示すことは出来ます。従って、アウラアムの子を自称する者に対し、「悔改めにふさわしい実を結ぶ」ように気づかせるのが神様の望みであり、彼が行動に移して「新しく造られる」までの苦しみこそが「愛の鞭」。一方のラザリも、決して無条件に救われたわけではありません。来世の喜びを信じて疑わず、不満を口にすることなく精一杯に生き抜きました。だからこそ、主は彼に「勝利の栄冠」を授けられたのです。
ともあれ、誰が信仰深く天国において神様の左右に座れるのか、来るべき審判の日が訪れるまで私たちには分かりません。だからこそ、「あなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アウラアム、イサアク、イアコフに与えると誓われた地に住むことができる」でしょう。
(伝教者 ソロモン 川島 大)