「十字架の縦横は天に齊し」というフレーズが十字架挙栄祭には登場します。「モイセイは杖を以て十字架の縱を象りて、徒歩にて行けるイズライリの爲に紅の海を撃ち分ち、ファラオンの兵車に向いては、勝たれぬ武器の横を記して、海を撃ち合せたり」。モイセイの例では、縦が支えとなる杖、横が守りとなる武器を指しており、この関係性は次の福音と密接に結びついているように思われます。
ある時、律法師の一人がイイススを試そうと皆の前で尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。すると返ってきた答えは意外なものでした。一つが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、いま一つが「隣人を自分のように愛しなさい」。どちらも、これまで彼ら自身が学び、かつ人々に説いてきた教えそのものだからです。
ところが、「どうしてダヴィドは、聖神を受けて、メッシヤを主と呼んでいるのだろうか」、「どうしてメッシヤがダヴィドの子なのか」、誰一人この疑問には答えられませんでした。なぜなら、それは神様が「信じようとはしない…人々の心の目をくらまし、神様の似姿であるハリストスの栄光に関する福音の光が見えないよう」になさったためです。コリンフ後書において、聖使徒パウェルは述べています。「「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の神を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と。従って、「ダヴィドがメッシヤを主と呼んでいる」のも、預言者自身の敬虔な信仰に基づくもの、と考えて差し支えありません。
「わたしたちは、いつもイイススの死を体にまとっています、イイススの命がこの体に現れるために」。けれども、「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神様は、わたしたちの心の内に輝いて、イイスス・ハリストスの御顔に輝く神様の栄光を悟る光を与えてくださいました」」。ゆえに、私たちは「生命を施す十字架」に対して、「爾の煇煌にて、我等を照せ」と祈ることが出来ます。「神を愛する者皆來りて、尊き十字架の擧げらるるを見て、惟一の救世者及び神を崇め、且光榮を歸して呼ばん、十字架の木に釘せられし主よ、我等祈る者を棄つる毋れ」。すると、今世においても来世のごとく「我等の堕落せし性は地より起されて、天に住むを得る」ことでしょう。
「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」。確かに、かつて「モイセイが尊き十字架の能力を預象し…手を舒べて十字架の形を爲した時、民は力を得…シナイの野に於て仇敵アマリクに勝ち」ました。けれども、ここで示される私の「敵」とは、もはや目に見える誰かあるいは何かではありません。なぜなら、「預象の事實は我等の中に成就した、今日悪魔の苦悩である十字架が擧げられたことによって、一切の賜は我等に輝き、悪鬼は逐われ、造物は皆朽壞より解かれた」のですから。
新約の教えが決して新しい概念ではなく、旧約に由来する旨をファリセイたちにも伝えようと、主は律法書の内容を引用なさいました。今を生きる私たちもルールやマナーに囚われてしまいがちです。しかしながら、信仰の本質は「神様を愛すること」、「神様が造られた隣人を愛すること」、の二つに集約されます。身の回りに存在する人やあらゆる自然は、自分と同様に神様の働きによって造られ、寵愛を受けているため、「万物を造りし主」を愛することは信仰の初めなのです。
「十字架の縦横は天に齊し」。先に述べた福音の箇所と照らし合わせて考えれば、縦は神様と私たち一人ひとりの繋がり、横は神様の被造物である私たち同士、ひいては自然との繋がりを象徴する、とも言えましょう。この二つが交差した時、私たちはいつでも神様の御国へと招かれているのです。
(伝教者 ソロモン 川島 大)