■2021年11月 長旅

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マトフェイ11:28)」。

 京都市内あらゆる場所から目にすることのできる施設に「京都タワー」があります。盆地を取り囲む山上の展望台はもちろん、何気ない街中でさえ、その「灯台」は私たちの道標として、昼夜問わず人々の安全を見守っているかのようです。

「生神女福音」という聖堂名を持つ京都教会ですが、信徒にとってはこの生神女マリヤさまも「輝ける光の燈臺(『三歌斎経』p.753)」。それこそ、20世紀初頭の創建当時は周囲に高い建物も少なかったことでしょうから、名実ともに御所南の「灯台」として、街行く人々のためにも重要な役割を担っていたように思われます。しかしながら、近年ではそうした意味合いも薄れてしまい、今や悲しいかな観光のプロですら知る人ぞ知る教会の一つに過ぎぬ印象は拭えません。

 さて、私がこちらへ赴任してお陰様で満一年となりましたが、本日は趣味の街歩きがてら目に留まった魅力的な活動を皆さんと共有できれば幸いです。10月頃お祈りへ参祷する際、この界隈で背の高い草花をやたらと目撃した方も多いのではないでしょうか。寺町通の寺社を中心に、近くの道沿いや銀行・郵便局の入口にも展示された「フジバカマ」。20年ほど前に大原野で固有種の自生が確認されてから紆余曲折を経て、市内各地では現在この準絶滅危惧種の「秋の七草」を絶やさぬよう、保全・育成に関する取り組みが活発に行われてきました。

 御池通から今出川通にかけては「源氏藤袴会」が旗振り役を務め、地域一丸となって藤袴祭やスタンプラリーなど、京町家に相応しい街興しに励んでおられます。どこか懐かしく「平安の香り」とも称される芳香に誘われる代表的な存在が「アサギマダラ」です。青緑と黒のまだら模様が美しいこの蝶は、フジバカマの花の「蜜」を求めて日本列島を縦横無尽に移動するほどの長距離を旅します。

 京都タワーは元々「海のない京都の街を静かに照らし続ける灯台(公式HPより)」をモチーフに建設されました。その一方で、私たちの「灯台」には昔も今も変わらずに尽きることのない「生命の水」が満ち溢れています。信仰の諸先輩は、「聖書の花園を飛び繞り、其花より最善き者を採りて…教の蜜を共に衆信者に其筵として進め(『祭日経』p.349)」られました。また、「秘密に…口を睿智の器に近づけて、彼處より蜜に愈り房より滴る蜜に愈る不死の水を斟み(『祭日経』p.1203)つつ、人々に神様への讃美を促してこられた結果、私たちも「器よりするが如く饒に之を斟む(『祭日経』p.941)」ことができます。

 なぜなら、私たちの主イイススは「隅のかしら石(マトフェイ21:42)」より湧き出ずる「蜜をもってあなたを飽かせる(聖詠80:16)」神様だからです。そして、「蜜にまさってわが口に甘く(同上118:103)」心地良い主の御言葉は、人々にとって「魂に甘く、からだを健やかにする(箴言16:24)」、言わば「わが足のともしび、わが道の光(聖詠118:105)」となります。

 アサギマダラが飛来するのに伴い、季節の自然を愛でる人々もまた来訪するそうです。「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした(エウレイ13:2)」善行を私たちは聖伝に学びます。けれども、ある地方の「人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、(奇跡を行われた)イイススに願い(ルカ8:37)」出ました。

 私たちの聖堂は信徒一同の財産であると共に、文化財として地域に根差し、信仰の拠り所として人々に開かれた空間でなければなりません。時には壮大な宣教計画を掲げ実行に移す努力も大切ですが、まずは近隣の方、あるいは付近を訪れた方に、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地(出エギペト3:8)」の実在を知っていただくのが先決です。そのきっかけとして藤袴会への協力は大変意義深いものと考えます。ぜひとも、来年からは「香り草…を摘み、蜜…を吸い…ぶどう酒…を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え(雅歌5:1)」と呼び掛け、「心安らぐ教会、再び訪れたい場所」を提供しましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)