「本当のお金持ちがせっせと貯めている、お金よりも大事なあるもの(プレジデントオンライン2021/10/6)」。実業家の堀江貴文氏曰く、それはずばり「経験」であると語ります。「僕が身につけた数えきれないほどの体験は、もう同じ額のお金を投じても取り戻せない。不要不急を重ねて(若いときだけに得られる出会いや運、興奮や体験をお金で取りに行き…)、どっさり積んだ経験こそが、僕の本物の財産だといえる」。実はキリスト教でも、これとよく似た教えを唱えます。皆さんは「タラントの譬え」をご存知でしょうか。なお、「タラント」とは「タレント」のことであり、大まかに三つの意味:職業、才能、富を表わす言葉です。
ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五千タラント、一人には二千タラント、
もう一人には一千タラントを預けて旅に出かけた。早速、五千タラント
預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五千タラントをもう
けた。同じように、二千タラント預かった者も、ほかに二千タラントを
もうけた。しかし、一千タラント預かった者は、出て行って穴を掘り、
主人の金を隠しておいた(マトフェイ25:14-18)
長旅を終えた主人と清算をする段になり、創意工夫でタラントを増やした二人は「忠実な良い僕(同上25:23)」と評価される一方、都合良く解釈して何もしなかった者は「怠け者の悪い僕(同上25:26)」と戒められました。後者については、もし旅に出た主人が戻らなければ「せしめてしまおう」と考えていたのかも知れません。主人は彼から全財産を没収し、最も努力した者へと託しました。
堀江氏は続けます。「使うことが存在意義のお金を、使わずに貯めておくのは骨董品収集と大差ない。置いておけば市場価値が上がるかもしれないぶん、骨董品の方がまだマシ…お金を得たら、新しい挑戦や、好奇心を満たす遊びにすべて使いつくしてほしい。そうすることで、生きた経験が身につく。経験こそが、人生を楽しく豊かなものにする。経験は、あなたのステージや、見ている景色をいまよりもはるかに高めてくれる」と。
私たちハリスティアニンは、「お金」を「神様からの賜物」と置き換えてこの発言を捉えることができます。また、「遊び」はともかく、巡礼などを通じて見聞を広めるのも、ある意味では信徒の大切な務めかも知れません。いずれにせよ、自身に与えられた才能を余すところなく活かし、善行によって隣人を教え導くならば、神様の恩寵は自分と相手の総和として「倍増」するのです。
問答者聖グリゴリイは次のように述べています。「わたしたちは善意以上に高価なものを神に献げることはできない。善意とは、他人の災いを自分の災いと見なし、隣人の成功を自分の成功でもあるかのように喜び、他人の損害を自分の損害と思い、他人の利得を自分の利得と考え、友人を現世的な利得のためではなく、神のために愛し、敵をも愛しつつ耐え忍び、自分にしてもらいたくないことをだれにもせず、自分にしてほしい正当なことを他のすべての人にもしてやり、自分の能力に応じて他人の窮乏を助けるだけでなく、力以上に援助したいと望むことである。したがって、善意以上に高価な焼き尽くす献げ物はない。善意の人の魂は、心の祭壇で、神にいけにえを献げることで、自分自身を犠牲にするのである(グレゴリウス一世『福音書講話』熊谷賢二訳, p.54)」。
ゆえに、私たちはタラントの「収集家」や「傍観者」には決して成り下がらず、然るべき事柄に惜しげもなく用いる真の「富める者」を目指してまいりましょう。
(伝教者 ソロモン 川島 大)
※画像の説明:「命のビザ」を発給し続けた正教徒・杉原千畝氏の記念碑(リトアニアのビリニュス市にて)