■2021年5月 人間の体シリーズ 死の接吻 生の接吻

イウダ(ユダ)はやって来るとすぐに、
イイススに近寄り、
「先生」と言って接吻した。
人々はイイススに手をかけて捕らえた。
(マルコ福音書14・45〜46)

ハリストス 復活!

 オーソドックス・チャーチ、正教会のような歴史の長いキリスト教会にあっては、接吻、キスは重要です。
 挨拶の時はお互いの「平安」を祈りつつ、お祈りの時には十字架や聖像へ、親愛の情をあらわすために接吻します。
 聖書、教会にはいろいろな接吻の挿話があります。
 大斎(おおものいみ)終盤、受難週間を迎えると、思い出さずにはいられないのが、冒頭に引用したイウダの裏切りの場面です。
 最愛だったはずの先生、恩師を、親密な愛情表現である接吻で裏切る、それも銀貨30枚で売り渡す、そしてイウダ自身は、悔い改めることもなく自殺してしまう。
 この光景は、じつは「創世記」冒頭のある事件を暗示します。
 ではその事件とは何でしょうか。
 アダムとエバ(イブ)の果実を食べた事件に隠れてしまって、あまり取り上げられませんが、兄弟殺人、兄カインが弟アベルを野原に誘って殺害した事件です。
 聖書は、首を絞めての絞殺か、石や棒での撲殺か、ナイフ・短剣での刺殺かを書いていません。けれども兄を信頼し、油断していた弟に襲いかかって殺害したカインは、弟の遺体を野原の土の中に埋めて隠したと伝えられています。
 アベルの遺体は親もとへ帰ることができず、両親は悲嘆に暮れます。
 お葬式すらできない状態のアダムとエバ、両親はアベルの行方をさがして、野原を泣きながら捜したことでしょう。
 カインは追放され、荒れ地で暮らします。
 ここには神と人、人と人、それも自分の肉身である家族との交流、交際を拒絶し関係を絶った人間がいます。
 兄カインは、頬に接吻して親愛の情を示し、肩を抱きながら弟を連れて野原へ行ったのではないでしょうか。この情景が、何千年の時をへてイウダがイイススに対しておこなった接吻の言行に繰り返されます。
 死の接吻。
 この死の接吻の対極にあるのが、生命(いのち)の接吻です。
 生の接吻。
 イイススの十字架のあと、女性たちは、イイススのご遺体を新しい墓に葬ります。そのときイイススに接吻、頬ずりし泣く、生神女マリアと女性たちの姿が聖像に画かれたりもします。
 じつは永眠者(死者)と接するとき、司祭(神父)は真っ先に永眠者の額に接吻します。こうした接吻は、同じ動機で行われます。生命の接吻です。 
 イイススの葬りと復活、死と甦り。
 死ではなく生命を、絶望では生きる希望を、接吻があらわします。
 わたしたちの接吻は、カインの死の接吻ではなく、イイススがわたしたちにしてくださる愛情こもった「生の接吻」を模範とします。
 復活の主イイススからわたしたちへ恵まれる永遠の愛、「愛憐の接吻」は、第二のアベルであるわたしたちが、埋められた野原、孤独の墓所から復活し、よみがえり、求めてやまない最愛の神への接吻によって、成就されるのです。

実に 復活!

(長司祭 パウェル 及川 信)