■2021年4月 門戸

 京都非公開文化財の春期特別公開が始まりました。早速私も友人を誘い、以前から気になっていた東山の寺院を訪問。期待通り、ルーマニア辺りで見られるフレスコ画によく似た、幻想的な世界が一面に広がっていました。美術や音楽といった芸術作品は、教会において少なからず入信のきっかけともなり得ます。それにもかかわらず、好立地に唯一無二の文化財を有するお寺が、通年公開を決断しないのはなぜでしょうか。2016年秋、実は我が「京都ハリストス正教会」もこの企画に初めて参加したところ、11日間で延べ21,500人もの拝観者が聖堂に訪れるなど、非常に大きな反響があったそうです。けれども、受け入れ態勢がネックとなり、再度の参加は見送られています。

 私たちの聖堂は、俗に言う「拝観寺院(観光寺院)」ではありません。代わりに、誰でも畏敬の念を抱いて「門をたたく者には開かれる(マトフェイ7:8)」教会です。また、祈祷の予定が公表されていない寺社仏閣とも異なり、可能な限り周知した上でお祈りは行われています。その時間に合わせてお越しいただければ、内部へ入るための事前予約も基本的には要りません。何より、たとえ参祷者の少ない平日であっても、そこにはハリストスの臨在(同上18:20)や、天上の教会との一致が確かに示されています。このように、正教会の教会堂は「生ける神の神殿(コリンフ後6:16)」として、「堂の美なるを愛する者(『奉事経』)」たちの働きにより、物理的にも、精神的にも、建立当時から変わらぬ姿を守り続けてきました。

 よって、乳香の香りが漂っているのも、イコン、壁、柱などが煤けているのも、それらは人々の祈りが染み込んでいる証しです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ(創世記28:17)」。せっかく神聖神に導かれた方々にこうした第一印象を覚えていただくには、美術館や博物館のように保存・展示された状態ではなく、五感に基づく生きた信仰体験を提供する場であり続けたい、というのが私たちの願い。もしかしたら、先の寺院の本音もこのような感じかも知れません。

 さて、大斎第四主日は「階梯者イオアンの主日」とも称されます。創世記の記述(「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた(20:12)」)にヒントを得た聖イオアンは、代表的書物『天国への階梯』の中で次のように述べました。「主イイススが宣教を開始した三十歳という年齢に倣い、この世から天の門に上って行く三十段からなる階段を設けた。この階段を上って主と同じ年齢に達すれば、正しく、そして倒れることのない確実な人となるであろう」と。信仰生活の記念すべき最初の一段目は、ずばり「洗礼」です。そこに至るきっかけは多岐にわたるものの、新約時代を生きる者にはこれこそが唯一の入口。とはいえ、知らないこと、見聞きしないことは、人々にとって不安でしかありません。ゆえに、ハリストスは自ら模範となるべく、誰よりも先に洗礼を受けられました(マトフェイ3:13-17)。

 また、「来て、見なさい(イオアン1:46)」との言葉からも、洗礼に限らず「人と神との一致である(階梯者イオアン)」祈祷は、まさに「百聞は一見に如かず」です。「羊の門(イオアン10:7)」であるハリストス曰く、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い(マトフェイ7:13)」とのこと。さらに、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である(イオアン10:1)」と警告しておられます。つまり、私たちは相応しい入口から神様への従順を示すべきなのです。そして、歩みを進めたならば、いずれ「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを…見ることになる(同上1:51)」でしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)