■2021年2月 属性

 「「明けない夜はない」とか言ってくる人、朝が希望に満ちていると思ってる時点で仲良くできない(@chigusasoichiさん)」。短文投稿サイトTwitterにて呟かれたこのフレーズ。1月13日に発信されるや瞬く間に拡散し、2月初旬現在までで20万件近くもの「いいね」を集めました。
 
 これには、占いやカードゲームに存在する「属性」という概念が、少なからず影響を与えているように思われます。例えば、火の属性同士なら相乗効果が期待されたり、異なる属性なら土と木、火と水のように、組み合わせ次第で相性の良し悪しが発生したりする仕組み。プラス思考の人が光属性で、マイナス思考の人が闇属性、といった具合に、私たち人間にもこうした分類は可能か否か。
 
 ここで厄介なのが、この二つは相反する属性である、という先入観です。確かに、神様は「光を見て、良し(創世記1:4)」とされながら、「闇を見て、良し」とはされませんでした。けれども、光である神様ご自身に似せて創造された私たちは、本来的に「光属性」一択と言えましょう。
 
 金口イオアンによると「太陽の光線に囲まれる者は、ごく僅かな暗闇でさえも遠ざからざるを得ません」。逆説的に捉えれば、神様に背く者はその分だけ悪魔に付け入る隙を与えており、自らネガティブな感情を増幅させることとなります。旧約の民を見ても分かるように、人々は原祖アダム以来、知ると知らずして光から遠ざかる「茨の道」を歩んできました。ましてや、暗闇を好む人にとって、居心地の良さを実感する世界を慌てて抜け出す必要などない、と考えるのは自然な流れ。
 
 だからこそ、神様はその都度あらゆる手段を講じつつ、闇に住む者には「身を現せ(イサイヤ49:9)」と呼び掛けておられます。ついには、人類最高の模範であるマリヤさまを通して、暗闇に居る人々の上に「正しき太陽」であるハリストスをも輝かせられました(迎接祭の讃詞)。つまり、私たちが光を敵視して対極の「闇属性」をいくら自認しようとも、人類はみな「光の子、昼の子(フェサロニカ前5:6)」としての可能性を秘めているのです。
 
 さて、2月14日と言えば、世間ではバレンタインデー。愛する人や日頃お世話になっている人に対し、チョコレートなどをプレゼントする日として有名です。同じ日の夕方より正教会で祝われる主のお宮参り「迎接祭」もまた、神様から私たちへのバレンタインデー。諸外国では、聖体礼儀の前後に蝋燭を祝福する習慣が知られます。信仰生活に欠かせないこの蠟燭は、「目に見える炎で燃え上がって夜の闇を追い払うがゆえ、私たちの心は目に見えぬ炎で燃え上がり、聖神の輝きにて照らされ、あらゆる罪の盲目を追放する(『大聖事経』)」真実の光です。
 
 この光を手にしていない者は、長いトンネルのような出口の見えぬ人生に対し、恐怖や不安を覚えるでしょう。しかしながら、このような状況には神様からのメッセージが込められています。敬虔な祭司のシメオンは、聖神によってこう告げられました。「復活を賜う(迎接祭の讃詞)」主を神殿で迎え入れ、自らの胸に抱くまでは「決して死なない(ルカ2:26)」と。
 
 朝が希望に満ちていないのは、他者の責任や偶然の結果ではありません。それは、神様が必死で贈ろうとするプレゼントを自分自身で拒んでいるから。思い立ったが吉日、私たちは「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう(フェサロニカ前5:6)」。洗礼を受け、さらには領聖を果たし、迎接祭で捧げられた蝋燭を自ら手に入れるべきなのです。そうすれば、私たちはもはや「夜にも暗闇にも属していません(同上)」。
 
 こうして、神様を本当の意味で知り、運命の出会いを果たしたならば、「既に真の光を観た(『奉事経』)」者として永遠の国へと導かれるはず。これこそが、神様からの最大の贈り物、私たちにとっての真実の夜明け、すなわち希望に満ちた喜ばしき朝なのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)