■2019年10月 人間の体シリーズ 鼻─匂いと香り

イサクは、イアコフ(ヤコブ)の着物の匂いをかいで、

祝福して言った。

「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。

どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、

お前に与えてくださるように」(創世記27:27-28)

劇作家でキリスト教徒でもある矢代静一氏の戯曲『道化と愛は平行線』で、登場人物が次のような内容を語ります。

貧乏って何?

それは匂いだと。

体臭と言っても良いのかもしれません。

わたしたちの周りは、匂い、香りに満ちています。良い匂いもあれば、鼻の曲がるようなひどい匂いもあります。

それは教会、聖書の世界も同じです。

アダムとエバ(イブ)の誘惑された果実は、見た目に美しく、色鮮やかで、さらに美味しそうな甘い香りを漂わせていました。

父イサクは、息子イアコフ・イスラエルにだまされます。弟イアコフは兄エサウに与えられるべき父の祝福を奪います。目の見えなくなっていた父イアコフは、毛皮を身につけた弟イアコフを抱いて匂いで確認し言います。
「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ」

旧約聖書の『雅歌』は、神と人、神と教会・信仰者との交わりを詩で詠います。その詩は色とりどりの花や美味しい果物の香りに満ちています。

19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマ長老が永眠します。すると人々は何か奇蹟が起こるはずだと神秘現象を期待して待ちます。生存しながらにして、聖人になるだろうと期待されている人に対して、信徒は奇蹟を期待します。

ところが、ゾシマ長老の遺体は、奇蹟どころか、「くさい匂い」腐臭を放ち始めたのです。人々はおどろきあわてます。死体が腐ることはあたりまえのことです。だからたいてい、いま遺体の納まった柩にはドライアイスを入れます。ゾシマ長老は聖人になるはずの人、みんなそう信じていました。その人の遺体が匂う、くさい。

理想を求める信仰者はときどき誤った幻想を持ちます。幻想的な期待と、教会の言う信仰者の「希望」とは本質が違います。ある意味その差は紙一重です。

匂い、香りもそうです。自然の野山の花の香りと、芳香剤・入浴剤・洗剤などに入っている人工的な匂いは全く異なります。

化学合成された人工的な香りではなく、野の草花の咲き乱れ、小鳥や蝶の飛び交う野原の香りが、神の国を象徴しています。

教会の、いえ信仰者の求める匂い、香りの原点は、エデンの園、神の国です。 それはイサクがイアコフ・イスラエルに語った「野の香り」であり、イイススの埋葬の場面にも象徴されています。 
十字架にかけられて永眠したイイススが葬られた新しい墓の周囲は草木、花々の甘い香り、女弟子がイイススにぬった香油の香りに満ちていました。

十字架から下ろされて、新たな墓へ葬る道すじでは、ご遺体が通るにつれて白い百合の花が真紅のきれいな赤い百合の花に変わり、甘い芳香に満ちたと言います。聖堂もそうです。聖堂は、かのエデンの園、わたしたちがいつか行くであろう天国、神の国を表しています。

(長司祭 パウェル 及川 信)