イイスス彼(フォマ、トマス)に言う、 「なんじは われを見しによりて信ぜり。 見ずして信ずる者は福(さいわい)なり」 (イオアン福音20:29)
第四の目は「神の目」です。
神の目を持った聖人、特に皆さんに紹介しなければならない聖人がいます。 京都生神女福音大聖堂にヒントがあります。
ここは主教座のおかれた大聖堂。
主教様がいらっしゃるとき、この聖堂の主教座には、オルレツという鷲を刺繍した絨毯が敷かれます。
鷲は、この聖障(イコノスタス)の中央の一番上、万軍の救世主、全能の神の聖像の中にも画かれています。
ご存知のように鷲は、猛禽類の王者、何百メートルの天空から、地上の小さなネズミさえ発見します。
神の目とは、たとえば鷲の目のように、あらゆる森羅万象を精密に網羅し、俯瞰(ふかん)し、透徹する目です。
神の目は、場所・時間・空間などに拘束されません。
神の目はこの世の時空間にすでに訪れている神の時間、神の空間をはっきりと明らかに見せ体験させてくれます。
キリスト教会の歴史のなかの、最初の偉大なる神学者イオアン(ヨハネ)の象徴が、鷲です。
12人の聖使徒の中で、唯一、神の目をもつにいたったイオアンは、だから神秘的な啓示を受けて「黙示録」を書くことができました。
正教会は「知恵の浄き光を輝かし」と祈ります。
これは神の叡智です。神の叡智に満てられし人が神の目をさします。
イオアンは、あの最後の晩餐「機密の晩餐」のとき、神の胸に抱かれ、神の鼓動をきいた聖使徒でもあります。
神の胸、神の腹の奥底から「見つめている人」です。
それが神学者であり、祈りの人、なのです。
イオアンは神の胸の奥底、神の腹のただ中を体験します。
神のただ中、真ん中にあったものは何か。
たとえば愛があります。
イオアンは「愛の使徒」と呼ばれます。そして人間のだれもが「愛」に生きることができます。すなわちだれもが神の目を持つことができます。
神の目を持つ者は、恐怖を克服し、愛に絶望せず、愛することを畏れず、神と人とを愛しつづけます。
心の目、霊の目が祈りによって磨かれて、神の目に到達します。
神に、そして人に愛され、愛し合う者にだけ見えてくるものがあります。
神の目は、信じ、希望をもちつづけ、愛する信仰者が、獲得することのできる、信仰の目、ハリストスの目でもあるのです。
(長司祭 パウェル 及川 信)