モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は 夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、 海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は、海の中の乾いた所を進んで行き、 水はかれらの右と左に壁のようになった。 (旧約聖書「出エジプト記」14:21− 22)
キリスト教会の最も古い象徴(シンボル)の一つに、魚があります。
「イイスス・ハリストス神の子・救世主」の頭文字をならべると、ギリシャ語でイキトス、魚という言葉になるそうです。
教会にとって、魚は非常に縁の深いたいせつな象徴です。
出エジプト記でイスラエル民をエジプトから導き出した預言者モーセ(モイセイ)は、紅海を真っ二つに割って、海をまたいで、人々を救いました。
その時、やっぱり体、胴体が二つに泣き別れになり、また一つに合わさった魚が、かれいやひらめだと伝説にいわれています。
神様も罪なことをしたもので、目玉の位置が、右に寄ったり左に寄ったりしたので、それぞれが、かれいとひらめに分かれてしまったのだと言います。
それゆえか、かれいやひらめは、モーセのサンダルフィッシュともいわれています。
ヘブライ語では、ダグ・モーシェ・ラベヌ「われらの師モイセイ」です。
一見、かれいとひらめを尊敬しているかのような名前ですが、かれらは身を二つに裂いた痛みを忘れられません。
すこしばかり恨みがましく偏った目、ご面相で、聖人モーセではなく、自分たちを食べてしまう人間、わたしたちをにらんでいるのです。
旧約聖書の預言者イオナ(ヨナ)は、巨きな魚に呑み込まれました。
この場合、大きな魚は、神の救いを表し、大きな魚から救い出された(吐き出された)イオナは、新たな人間として、神の使命を全うするのでした。
この得体の知れない化け物の魚を聖書ではときおり、レビヤタンと呼びます。 自分が原因ではない、自分のせいではない事故や事件、天災などにわたしたちは巻き込まれることがありますが、レビヤタンとは、人の一生を左右する、魔の空間、闇の力をさしています。「魔が差す」と言う表現がありますが、そういう不思議な存在がレビヤタンなのでしょう。
でもわたしたちは、困難や理解に苦しむ状態に陥っても、失望してはいけません。預言者イオナが巨きな魚の腹の中で祈ったように、沈着冷静でいることも大事なのです。神様を信頼しようとするとき、人は、覚悟を決めます。だんだん、じたばたしなくなります。
魚を捕る漁師が、ポイントを決めて網や釣り糸を垂れて、仕掛けるとき、熟練の漁師ほど、天候を読み、潮目を見極め、魚のかかる時をじっくり待つことを知っているように、辛抱強く信じ、祈りつづけます。
信仰者も信仰生活を熟練させ、祈りを深めましょう。
しっかり待つことのできる信仰者は常に忍耐強く、謙遜であり希望に満ちています。
(長司祭 パウェル 及川 信)