■2021年11月 長旅

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マトフェイ11:28)」。

 京都市内あらゆる場所から目にすることのできる施設に「京都タワー」があります。盆地を取り囲む山上の展望台はもちろん、何気ない街中でさえ、その「灯台」は私たちの道標として、昼夜問わず人々の安全を見守っているかのようです。

「生神女福音」という聖堂名を持つ京都教会ですが、信徒にとってはこの生神女マリヤさまも「輝ける光の燈臺(『三歌斎経』p.753)」。それこそ、20世紀初頭の創建当時は周囲に高い建物も少なかったことでしょうから、名実ともに御所南の「灯台」として、街行く人々のためにも重要な役割を担っていたように思われます。しかしながら、近年ではそうした意味合いも薄れてしまい、今や悲しいかな観光のプロですら知る人ぞ知る教会の一つに過ぎぬ印象は拭えません。

 さて、私がこちらへ赴任してお陰様で満一年となりましたが、本日は趣味の街歩きがてら目に留まった魅力的な活動を皆さんと共有できれば幸いです。10月頃お祈りへ参祷する際、この界隈で背の高い草花をやたらと目撃した方も多いのではないでしょうか。寺町通の寺社を中心に、近くの道沿いや銀行・郵便局の入口にも展示された「フジバカマ」。20年ほど前に大原野で固有種の自生が確認されてから紆余曲折を経て、市内各地では現在この準絶滅危惧種の「秋の七草」を絶やさぬよう、保全・育成に関する取り組みが活発に行われてきました。

 御池通から今出川通にかけては「源氏藤袴会」が旗振り役を務め、地域一丸となって藤袴祭やスタンプラリーなど、京町家に相応しい街興しに励んでおられます。どこか懐かしく「平安の香り」とも称される芳香に誘われる代表的な存在が「アサギマダラ」です。青緑と黒のまだら模様が美しいこの蝶は、フジバカマの花の「蜜」を求めて日本列島を縦横無尽に移動するほどの長距離を旅します。

 京都タワーは元々「海のない京都の街を静かに照らし続ける灯台(公式HPより)」をモチーフに建設されました。その一方で、私たちの「灯台」には昔も今も変わらずに尽きることのない「生命の水」が満ち溢れています。信仰の諸先輩は、「聖書の花園を飛び繞り、其花より最善き者を採りて…教の蜜を共に衆信者に其筵として進め(『祭日経』p.349)」られました。また、「秘密に…口を睿智の器に近づけて、彼處より蜜に愈り房より滴る蜜に愈る不死の水を斟み(『祭日経』p.1203)つつ、人々に神様への讃美を促してこられた結果、私たちも「器よりするが如く饒に之を斟む(『祭日経』p.941)」ことができます。

 なぜなら、私たちの主イイススは「隅のかしら石(マトフェイ21:42)」より湧き出ずる「蜜をもってあなたを飽かせる(聖詠80:16)」神様だからです。そして、「蜜にまさってわが口に甘く(同上118:103)」心地良い主の御言葉は、人々にとって「魂に甘く、からだを健やかにする(箴言16:24)」、言わば「わが足のともしび、わが道の光(聖詠118:105)」となります。

 アサギマダラが飛来するのに伴い、季節の自然を愛でる人々もまた来訪するそうです。「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした(エウレイ13:2)」善行を私たちは聖伝に学びます。けれども、ある地方の「人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、(奇跡を行われた)イイススに願い(ルカ8:37)」出ました。

 私たちの聖堂は信徒一同の財産であると共に、文化財として地域に根差し、信仰の拠り所として人々に開かれた空間でなければなりません。時には壮大な宣教計画を掲げ実行に移す努力も大切ですが、まずは近隣の方、あるいは付近を訪れた方に、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地(出エギペト3:8)」の実在を知っていただくのが先決です。そのきっかけとして藤袴会への協力は大変意義深いものと考えます。ぜひとも、来年からは「香り草…を摘み、蜜…を吸い…ぶどう酒…を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え(雅歌5:1)」と呼び掛け、「心安らぐ教会、再び訪れたい場所」を提供しましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年10月 経験

 「本当のお金持ちがせっせと貯めている、お金よりも大事なあるもの(プレジデントオンライン2021/10/6)」。実業家の堀江貴文氏曰く、それはずばり「経験」であると語ります。「僕が身につけた数えきれないほどの体験は、もう同じ額のお金を投じても取り戻せない。不要不急を重ねて(若いときだけに得られる出会いや運、興奮や体験をお金で取りに行き…)、どっさり積んだ経験こそが、僕の本物の財産だといえる」。実はキリスト教でも、これとよく似た教えを唱えます。皆さんは「タラントの譬え」をご存知でしょうか。なお、「タラント」とは「タレント」のことであり、大まかに三つの意味:職業、才能、富を表わす言葉です。

ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五千タラント、一人には二千タラント、
もう一人には一千タラントを預けて旅に出かけた。早速、五千タラント
預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五千タラントをもう
けた。同じように、二千タラント預かった者も、ほかに二千タラントを
もうけた。しかし、一千タラント預かった者は、出て行って穴を掘り、
主人の金を隠しておいた(マトフェイ25:14-18)

 長旅を終えた主人と清算をする段になり、創意工夫でタラントを増やした二人は「忠実な良い僕(同上25:23)」と評価される一方、都合良く解釈して何もしなかった者は「怠け者の悪い僕(同上25:26)」と戒められました。後者については、もし旅に出た主人が戻らなければ「せしめてしまおう」と考えていたのかも知れません。主人は彼から全財産を没収し、最も努力した者へと託しました。

 堀江氏は続けます。「使うことが存在意義のお金を、使わずに貯めておくのは骨董品収集と大差ない。置いておけば市場価値が上がるかもしれないぶん、骨董品の方がまだマシ…お金を得たら、新しい挑戦や、好奇心を満たす遊びにすべて使いつくしてほしい。そうすることで、生きた経験が身につく。経験こそが、人生を楽しく豊かなものにする。経験は、あなたのステージや、見ている景色をいまよりもはるかに高めてくれる」と。

 私たちハリスティアニンは、「お金」を「神様からの賜物」と置き換えてこの発言を捉えることができます。また、「遊び」はともかく、巡礼などを通じて見聞を広めるのも、ある意味では信徒の大切な務めかも知れません。いずれにせよ、自身に与えられた才能を余すところなく活かし、善行によって隣人を教え導くならば、神様の恩寵は自分と相手の総和として「倍増」するのです。

 問答者聖グリゴリイは次のように述べています。「わたしたちは善意以上に高価なものを神に献げることはできない。善意とは、他人の災いを自分の災いと見なし、隣人の成功を自分の成功でもあるかのように喜び、他人の損害を自分の損害と思い、他人の利得を自分の利得と考え、友人を現世的な利得のためではなく、神のために愛し、敵をも愛しつつ耐え忍び、自分にしてもらいたくないことをだれにもせず、自分にしてほしい正当なことを他のすべての人にもしてやり、自分の能力に応じて他人の窮乏を助けるだけでなく、力以上に援助したいと望むことである。したがって、善意以上に高価な焼き尽くす献げ物はない。善意の人の魂は、心の祭壇で、神にいけにえを献げることで、自分自身を犠牲にするのである(グレゴリウス一世『福音書講話』熊谷賢二訳, p.54)」。

 ゆえに、私たちはタラントの「収集家」や「傍観者」には決して成り下がらず、然るべき事柄に惜しげもなく用いる真の「富める者」を目指してまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

※画像の説明:「命のビザ」を発給し続けた正教徒・杉原千畝氏の記念碑(リトアニアのビリニュス市にて)

■2021年9月 就寝

 「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(マトフェイ17:19)」。癲癇の者を癒せずに悔しがる弟子たちは、師匠の主イイススにその理由を尋ねました。すると、返ってきた答えは冷徹ながら「信仰が薄いからである(同上17:20)」とのこと。時に私たちは、気に入らない仲間のことを「信仰が薄い」と非難したくもなるでしょう。しかしながら、主の場合は使徒たちの不手際を咎めるのが本意なわけではなく、ましてや彼らの人格を否定するのが目的なわけでもありません。そうではなく、「この種のものは、祈りと斎とによらなければ出て行かない…あなたがたにできないことは何もない(同上17:20-21)」と、最終的には師匠として弟子たちの務めを鼓舞なさっています。

 当時の使徒たちに足りなかったのは、「からし種一粒ほどの信仰(同上17:20)」です。とはいえ、主の御言葉に奮起させられた彼らの信仰は次第に成熟し、とうとう栄えある役割をも担うようになりました。その一例が次の祈祷文に集約されています。「神言を実際に見た者とその従者が、神の母の肉體における就寢、また終の祕密を見るのは相応しい。なぜなら啻救世主が地より升るのを見るだけでなく、彼を生んだ者が移されることをも証明する爲である(生神女就寝祭の晩課、リティヤの讃頌)」。

 本日、京都教会ではその記憶を行う「生神女就寝祭」を主日と併せてお祝いしています。一般的には「聖母被昇天」と呼ばれることの多い祭日。正教会ではこの名称を退け、聖師父たちは次のように説明してきました。すなわち、「火の状の車が、正しきイリヤに於ける如く、生神女を地上より移したのではなく、即ハリストス親ら彼女の至聖なる靈を、至りて瑕なき者として其手に接け、己の内に安息させ、靈妙に生神女潔き者を尊み、智慧に超える歡喜に移し給わった(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」のです。また、「(イイススはマリヤ様が)自然な方法で死ぬのを容認したのは、不信者が彼女を幻像と思わないようにするため(同上)」とも述べています。ただし、「死ぬ可き腰より出て(私たちと同じ)自然な終に遇いはしたが、眞の生命を生んだ者として、神聖なる實在の生命へと移られた(生神女就寝祭の早課、カノン第三歌頌)」ことは留意しなければなりません。

 その際に重要な役割を果たしたのが、先に述べたところのかつては頼りなかった使徒たちです。「浅はかさを捨てて命を得、分別ある道を歩(箴言9:6)」んだ結果、「(生神女の)不死の就寢の時に雲は使徒たちを空中に擧げ…世界に散じ居た者はみな彼女の至聖なる體の前に集まり、恭しく葬る(同上、早課の讃頌)」ことができました。「諸使徒が送り、諸天使は接ける(自印聖像祭の晩課、挿句の讃頌)」様子はまさに、かつて主が「この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる(マトフェイ17:20)」と教え諭した場面に通じるものがあるでしょう。

 このように、「無形の天軍はシオンに於て生神女の神聖なる體を環り、使徒の會も俄に地の極より集まって、彼女の前に立ち(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」ました。そのうちの一人・聖使徒パワェルは促します。「わたしがハリストスに倣うように、あなたがたはわたしに倣う者となりなさい(コリンフ前4:16)」と。よって、私たちは「彼等と偕に…尊き記憶を讃榮(生神女就寝祭の早課、カノン第一歌頌)」すべく、二週に及ぶ斎期間を設けてこの祭日を毎年盛大に祝うのです。

 トロパリで歌われる「寢る時世界を遺さざりき(同祭日の発放讃詞)」とは、この世での命を終えようともマリヤ様は人々を決して見放さないことを意味します。ですから、私たちは生神女の庇護のうちに、思いを新たにした使徒たちに倣うことが可能です。まずは、自らが「心に隠れ潜むあらゆる凶悪な不浄の気(『聖事経』p.26)」を追い出すための努力を重ねたいもの。その次に、ハリストスの御許にてマリヤ様や使徒たちと共に永遠の生命を謳歌できるよう、神様に祈りを献じてまいりましょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年8月 聖火

 AFP通信社が過去に興味深い記事を書いています。その名も、「復活祭の「聖火の奇跡」、エルサレムの聖墳墓教会(2010年4月4日)」。要約すると、これは聖墳墓教会の歴史と共に4世紀頃から続く、聖大スボタに関連した奉神礼とのこと。総主教聖下が恭しく携えた特別な炎を分かち、信徒たちは各自の蝋燭に火を灯します。今日の復活祭祈祷において常時私たちが手にする蝋燭の起源は、恐らくこの伝統に根差すものなのでしょう。ただし、キリスト教は「火炎」自体を神聖視するわけではありません。あくまでも「煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶け…神に逆らう者は必ず御前に滅び去る(聖詠67:3)」勝利の印を象り、主の復活に自らの来世を投影して信仰を固めるための手助けです。

 「さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる(聖詠103:4)」神様は、いかなる場面においても私たちの傍らに在られることを忘れてはなりません。旧約の時代、「主は火と共に来られ…怒りと共に憤りを…叱咤と共に火と炎を送られ(イサイヤ66:15)」ました。このように、少々強引な手段をあえて選ばれた分、当時の人々には「火の中を歩いても、焼かれず…炎は…燃えつかない(同上43:2)」奇跡が示されています。ダニイル書3章によれば、真実の神を知りつつ人々に偶像崇拝を命じた王がいました。敬虔な三人の若者:セドラフ、ミサフ、アウデナゴ(アザリヤ)は脅しに屈せず、正しき信仰を表明したゆえに燃え盛る炎の中へと投げ込まれてしまいます。けれども、「炎は、かよわい生き物がその中を歩いても、その肉を焦がすことすら(知恵書19:21)」ありません。よって、祈りを捧げる三人の間にはたちまち主の御使いが現れ、全員無傷のまま救い出されました。

 しかしながら、「炎の中から取り出された燃えさしのように(アモス4:11)」辛うじて助かった者の多くは、残念なことにその限りではありません。往々にして「炎に囲まれても、悟る者はなく…火が自分に燃え移っても、気づく者は(イサイヤ42:25)」いないのです。神様がこの様子をご覧になったなら、「お前たちはわたしに帰らなかった(アモス4:11)」と嘆かれることでしょう。

 新約の時代に入り、先の「炎」は聖神を象徴する出来事にて再び登場します。主イイススが天に昇られた後、弟子たちが一堂に会していると「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまり(使徒行実2:3)」ました。このように、神様は私たちの住む世界を離れ去った後でさえ、最愛の人々を見放すことはありません。ただし、旧約の預言者は予め警告しています。「(一方的に)主を捨てる者は舌によってひどい目に遭う(シラフ28:23)」ことを。なぜなら、「舌は彼らの内で燃え、決して消えることなく、獅子のように襲いかかり、豹のように彼らを引き裂く(同上)」からです。

 AFP通信社の取材に応じた若いギリシャ人男性の巡礼者は興奮気味に語ります。「僕は火にさわってみましたが、火傷しませんでした(冒頭記事)」と。一個人の意見として、非科学的な現象を積極的に肯定するつもりはありません。けれども、彼の感動体験はまるで、復活なさった主イイススと知らぬ間に再会を果たした弟子たちのそれと重なるかのようです。姿が見えなくなるや、二人は胸の高鳴りを次のように振り返りました。「わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。

 キリスト教徒は、言うならば一人ひとりが信仰継承という重責を担って歩み続ける「聖火ランナー」です。とはいえ、「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝き(イオフ18:5)」ません。だからこそ、次の一節を日常生活において実践する働きが求められます。「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る(民数記21:8)」。すなわち、狡猾な悪魔の囁きに屈せず自らの舌を制す者に対しては、神様が私たちの進むべき道を「昼も夜も歩めるよう…夜は火の柱によって(出エギペト13:21)」照らしてくださいます。そして、暗闇を照らすその聖なる炎は、周囲の人々に勇気や希望を与えているかも知れないことをも心に留めたいものです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年7月 放光

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい(創世記15:5)」。かつて神学生同士で外食に出掛けた帰り路、仲間が冬の夜空を眺めて言いました。「今日はオリオン座が綺麗に見えている」と。「北斗やオリオン…すばるや、南の星座を造られた(イオフ9:9)」のは神様であることを知りながら、成長するにつれていつしか星空に思いを馳せなくなっていた私。友人の何気ない一言に心を動かされ、久しぶりに天上へと目を向けます。幼い頃の記憶では、点と点がハッキリと線で結ばれ、確かにあの「鼓型」が浮かび上がっていました。ところが、まるで「天のもろもろの星とその星座は光を放たない(イサイヤ13:10)」かの如く、大人になった私の瞳には輝かなかったのです。

 このショッキングな出来事は、実際のところ近視や乱視の進行に起因するものでしょう。とはいえ、信仰生活を送る中でも、このように盲目的な局面が存在することを連想せずにはいられません。例えば、せっかく教会に救いを求めて足を運んだものの、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた(使徒行実27:20)」ように感じた方々もおられるはず。しかし、当然ながら「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違い(コリンフ前15:41)」があります。それに、「太陽も月も星も光り輝いて自分の務めに忠実(イエレミヤ書礼59節)」、かつ「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝く(ワルフ3:34)」ことを心に留め、パッと見ただけの印象で悲観的になってはいけません。

 自然豊かな京都市内では、祇園や銀閣寺といった市街地においてもゲンジボタルが飛び交います。観賞がてら私も撮影を試みましたが、不規則に点滅する黄色い光は何匹分かまとめて写すのがやっとのこと。けれども、カメラマンたちは「長時間露光」と呼ばれる方法などを駆使し、絶え間のない光線として同じ風景を表現力豊かに収めます。これらの要素から我々が学ぶべき大切な事柄は二点です。

 第一に、より多くの光を相応しく受容できるレンズを自身のうちに備えること。正教の祈祷書によれば、あらゆる聖人たちは暗闇を照らす「光」、さらには信徒を導く「星」であって、「光り輝く星は、夜空の美しい装い…主の高き所できらめく飾り(シラフ43:9)」としての尊敬を集めます。しかしながら、「度生と行とを以て輝き、言と教とを以て輝き、日が星より更に光れる如く、一切に於て衆より更に光れる(三成聖者祭の早課カノン第三歌頌より)」者、すなわち「節制を守った人たちの顔が星よりも輝くとしても、わたしたちの顔は闇よりも暗いではありませんか(エズドラ第三7:125)」。また、乱視のように光を正しく屈折させられないレンズの場合、映し出せるのは歪んだ像のみです。

 第二に、各信徒がより長く光を放ち続けること。蛍がお尻を光らせる理由には諸説あるようですが、一般的には「求愛行動」と考えられてきました。人々が神様の御許に参集して祈祷を捧げる姿やその目的は、まさにこれと似通っています。ただし、神様に対して必死に祈っているつもりでも、「身の恥を泡に吹き出す海の荒波(イウダ13節)」みたく一時の感情に過ぎないものであったならば、その人は「永遠に暗闇が待ちもうける迷い星(同上)」。ゆえに、「夕べの星も光を失い…待ち望んでも光は射さず…曙のまばたきを見ることも(イオフ3:9)」ありません。

 だからこそ、私たちは「夜が明け、明けの明星が…心の中に昇るとき(ペトル後1:19)」に至るまで、「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く(フィリッピ2:15)」存在を目指すべきなのです。そうすれば、「目覚めた人々は大空の光のように…多くの者の救いとなった人々は…とこしえに星と輝き(ダニイル12:3)」、「一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの(エウレイ11:12)」次世代を担う信徒ひいては聖人たちが生まれ出ることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年6月 農夫

映画レビュー「葡萄畑に帰ろう」

─ 爾等も我が葡萄園に往け、我至当の者を爾等に与えん(マトフェイ20:4) ─

あらすじは、日本語公式サイト http://www.moviola.jp/budoubatake/ 等を参照されたい。

 

 「万軍の神よ、面を返し、天より臨み観て、斯の葡萄園に降り、爾が右の手の植え付けし者と、爾が己の為に定めし芽とを護り給え(聖詠79:15-16)」。この聖句は高位聖職者が唱える祈祷文にも用いられ、創造主である神が常にその被造物を気に掛けておられる様子を表す。そして、この恩寵が何も善人に限られた特権ではなく、いかなる悪人に対しても変わりのない事実(マトフェイ5:45)としてキリスト教徒は心に留める。

 『葡萄畑に帰ろう』は正教国で産声を上げながら、極力宗教色を排した映画。ゆえに、神の庇護を観客に直接意識させる場面が登場することはない。けれども、正教のエッセンスをひしひしと感じさせる仕上がりである。とりわけ、主人公のギオルギ(ゲオルギイ)は、人々から「神を畏れないのか」と罵倒されたほどに信仰心の乏しい人物には見受けられない。彼の名は、ギリシャ語で「地を耕す者」の意味を持つ。特別な椅子によって、葡萄園の跡取りから大臣職にまで引き上げられたこの男は、権力者に抗わなかったことで瞬く間に天から地へと突き落とされた。そのような不遇の中にあってもなお、彼は一家の主として愛する家族を守るため、自ら立ち上がる決意を固める。結局は「昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がり(ミヘイ2:8)」、奮闘むなしく裁判所の決定に屈して住居の立ち退きを勧告されつつ、この不運はかえって「復活祭が台無しだ」という気持ちをも想起させた。

 ここからのシーンが実に興味深い。目を覚ました彼は我が家に閉じ込められていることを知り、すぐさま鍵を探すも見つからずに狼狽える。ところが、皮肉なことに以前愛車をパンクさせ、教会にとっても死の象徴である手元の「釘」が役立った。まるで、正教の地獄に関する伝統的な解釈が反映されているかのように窺える※1。また、アナグマに掘られたトンネルの存在を偶然にも思い出し、この「暗闇」を通り抜けて警官たちの包囲網をまんまと掻い潜った。脱走の末に辿り着いたのは、友人宅のワイン樽。ここから姿を現した演出に至っては、罪を清める「洗礼」への結び付きを示唆しているものと思われよう※2。つまり、監督はこの一連の流れに、ある農夫の「受難」と「死」と「復活」を描きたかったに違いない。

 こうして人生をやり直す好機を掴んだギオルギは、生まれ育った故郷へと帰還する。すると、彼以外の人物を決して座らせることのなかった椅子が乗せたのは息子の「ニカ(勝利の意)」。すなわち、もはや人種も身分も性別も関係のない葡萄園(天国)において、家族は仲睦まじく不自由のない暮らしを手に入れた(ガラティヤ3:28)。この後の展開は明かされていないが、おそらく一家をスケープゴートにした人々にも、いずれ神の正しい裁き(正しい導き)が訪れることを予感される(イエゼキイリ28:26)。こうして、日本国内では政治的風刺といった側面ばかりに注目が集まりながら、私には信仰に根差す生活の重要性を説くコメディ映画であるような気がしてならない。

 「来りて奥密の葡萄園に工作して、其中に痛悔の果を結び、飲食の為に労せずして、祈祷と禁食とを以て諸徳を行わん。此等に悦ばせらるる工作の主、独り大仁慈なる者は「ディナリイ」を与え、此を以て霊の罪の債を贖う(大斎第四主日の早課、「凡そ呼吸ある者」自調の讃頌『祭日経』p.686)」。

 

※1 シリヤの聖イサアクは「地獄の罪人が神愛を欠いた状態にいるというのは正しくない」と教える(V.ロースキィ『キリスト教東方の神秘思想』宮本久雄訳, 勁草書房, 1986年, p.282)。ロシア人神学研究者のАлексей Ильич Осипов氏は、このような聖師父たちの言葉を基に「地獄の扉は内部から操作できるため、出られない者は誰一人いない」と強調する。http://www.odinblago.ru/posmertnaya_zhizn/21(2018年12月26日アクセス)

※2 世界を造りし者は世界に現れ給えり、暗闇に座する者を照さん為なり。人を愛する主よ、光栄は爾に帰す(神現祭の晩課の讃詞『祭日経』p.288)、夜の有害なる黒暗を逐い、死すべき者の諸罪を滅し、爾の洗礼を以てイオルダンの流より光明なる諸子を出さん為なり(同早課のカノン第四歌頌の讃詞『祭日経』p.322)。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年5月 気象

 「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる(オシヤ6:3)」。私たちの住むこの世界は、時として不思議な天気に包まれます。けれども、「いと高き天(聖詠148:4)」や「天の上にある水(同上)」ですら主を讃美するのが事実であるならば、「地は震え、天は雨を滴らせ(聖詠67:9)」るなど、自然が特別な日に相応しい表情を見せるのも無理はありません。復活大祭を間近に控えた受難週間の終盤以降、京都教会の位置する中京区では、幾度となく奇怪な気象現象が起こりました。

 聖大木曜日の夕方、聖堂にて「十二福音」が行われます。これは、四つの福音書から主の受難にまつわる場面を全部で十二箇所抜粋し、様々な祈祷文に挟んで読み進めるお祈りです。第六福音を唱え終わる頃、手塩にかけてきた弟子に裏切られたハリストスは、一方的な裁判に付されて十字架刑に処されます。ちょうどその時、窓の外がただならぬ色に染まり始めたのです。換気のために開けていた扉から顔を出すと、辺り一面は赤紫色に覆われていました。地元紙によれば、当日この地域が「24時間雨量、4月の観測史上最大を記録(京都新聞2021年4月29日)」したことに起因するそう。ともあれ、この「赤紫色」の空は、奇しくも主が着せられた辱めの衣装と同じ色彩ではありませんか(マトフェイ27:28, マルコ15:17, イオアン19:2)。ゆえに、それはあたかも「雲を以て天に衣する者は偽の紫を衣せられ(聖大金曜日早課 第十五倡和詞)」た様子を私たちに想起させるようでした。

 続く第七福音の内容は、さらに臨場感を増します。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マトフェイ27:46)」。ハリストスが息を引き取られる寸前に放たれたこの叫び声。これに呼応して「全地は暗くなり、それが(昼の)三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた(ルカ23:44-45)」とされます。結局、造物主の死を悼むかの如く哀愁を帯びた空模様は、残りの福音を読了するまで広がっていました。

 これだけではありません。翌日の祈祷中、またしても私たちは急激な天候の変化に見舞われたのです。聖大金曜日の晩には、「眠りの聖像」が聖堂中央に安置され、主の葬儀が営まれます。出棺や葬送を象る「十字行」を終えて聖堂内に戻るや、今度は祈祷の響きが遮られるほどの豪雨が屋根を叩きつけました。「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される(イエレミヤ10:13)」と教えられます。従って、「激しい風が彼ら(不信仰の者)に立ち向かい、嵐となって彼らを吹き散らす(知恵書5:23)」のも、「不法はすべての地を荒れ地に変え、悪行は権力者たちの座を覆す(同上)」ことへの警鐘なのでしょう。

 とはいえ、私たちにはさらなる啓示が与えられています。「謊(いつわり)なく我等と偕に世の終末まで在すを約し(聖大パスハの主日早課 第九歌頌)」てくださった方のおかげで、今や「我等信者は此を冀望の固として喜ぶ(同上)」ことが可能です。すでに復活大祭を祝った日没前、東の空に大きな虹が架かりました。すなわち、「雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる(創世記9:13)」という主の御言葉に適うものでしょう。そして、「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった(イエゼキイリ1:28)」に違いありません。だからこそ、私たちは「豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる(ザハリヤ10:1)」万物の造成主に、確かな信仰を抱いて洗礼を受けるべく呼び掛けるのです。「釘せられざる先に辱の紫布を衣せられて、我の為に裸体にして釘せられしハリストスよ、爾の国の衣を我に衣せて、永遠の恥を免れしめ給え(聖枝週間火曜日晩課 挿句の讃頌)」と。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年4月 門戸

 京都非公開文化財の春期特別公開が始まりました。早速私も友人を誘い、以前から気になっていた東山の寺院を訪問。期待通り、ルーマニア辺りで見られるフレスコ画によく似た、幻想的な世界が一面に広がっていました。美術や音楽といった芸術作品は、教会において少なからず入信のきっかけともなり得ます。それにもかかわらず、好立地に唯一無二の文化財を有するお寺が、通年公開を決断しないのはなぜでしょうか。2016年秋、実は我が「京都ハリストス正教会」もこの企画に初めて参加したところ、11日間で延べ21,500人もの拝観者が聖堂に訪れるなど、非常に大きな反響があったそうです。けれども、受け入れ態勢がネックとなり、再度の参加は見送られています。

 私たちの聖堂は、俗に言う「拝観寺院(観光寺院)」ではありません。代わりに、誰でも畏敬の念を抱いて「門をたたく者には開かれる(マトフェイ7:8)」教会です。また、祈祷の予定が公表されていない寺社仏閣とも異なり、可能な限り周知した上でお祈りは行われています。その時間に合わせてお越しいただければ、内部へ入るための事前予約も基本的には要りません。何より、たとえ参祷者の少ない平日であっても、そこにはハリストスの臨在(同上18:20)や、天上の教会との一致が確かに示されています。このように、正教会の教会堂は「生ける神の神殿(コリンフ後6:16)」として、「堂の美なるを愛する者(『奉事経』)」たちの働きにより、物理的にも、精神的にも、建立当時から変わらぬ姿を守り続けてきました。

 よって、乳香の香りが漂っているのも、イコン、壁、柱などが煤けているのも、それらは人々の祈りが染み込んでいる証しです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ(創世記28:17)」。せっかく神聖神に導かれた方々にこうした第一印象を覚えていただくには、美術館や博物館のように保存・展示された状態ではなく、五感に基づく生きた信仰体験を提供する場であり続けたい、というのが私たちの願い。もしかしたら、先の寺院の本音もこのような感じかも知れません。

 さて、大斎第四主日は「階梯者イオアンの主日」とも称されます。創世記の記述(「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた(20:12)」)にヒントを得た聖イオアンは、代表的書物『天国への階梯』の中で次のように述べました。「主イイススが宣教を開始した三十歳という年齢に倣い、この世から天の門に上って行く三十段からなる階段を設けた。この階段を上って主と同じ年齢に達すれば、正しく、そして倒れることのない確実な人となるであろう」と。信仰生活の記念すべき最初の一段目は、ずばり「洗礼」です。そこに至るきっかけは多岐にわたるものの、新約時代を生きる者にはこれこそが唯一の入口。とはいえ、知らないこと、見聞きしないことは、人々にとって不安でしかありません。ゆえに、ハリストスは自ら模範となるべく、誰よりも先に洗礼を受けられました(マトフェイ3:13-17)。

 また、「来て、見なさい(イオアン1:46)」との言葉からも、洗礼に限らず「人と神との一致である(階梯者イオアン)」祈祷は、まさに「百聞は一見に如かず」です。「羊の門(イオアン10:7)」であるハリストス曰く、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い(マトフェイ7:13)」とのこと。さらに、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である(イオアン10:1)」と警告しておられます。つまり、私たちは相応しい入口から神様への従順を示すべきなのです。そして、歩みを進めたならば、いずれ「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを…見ることになる(同上1:51)」でしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年3月 早春

 冬の終わりを告げる甘く可憐な香り。枝にポツポツと半透明で黄色い花を下向きに付ける、その植物の正体は「蝋梅」です。名前に「梅」という漢字が含まれ、確かに香りや咲き方などは梅と似通るものの、厳密には梅の仲間ではありません。けれども、梅に勝るとも劣らぬ称号を獲得するほど、古くより人々に愛されてきました。それぞれの季節を代表する香り高い花々:春の沈丁花、夏の梔子、秋の金木犀は、「三大香木」として知られます。これに冬の花を加え、「四大香木」と呼んだ先人たちに選ばれたのは、花見の元祖・梅ではなく、他でもないこの蝋梅でした。

 蝋梅の花言葉は「慈愛」。「エルサレムから命の水が湧き出で…夏も冬も流れ続ける(ザハリヤ14:8)」ように、人間には厳しく思われる冬でさえ、神様の愛情は全ての被造物に注がれ続けます。この恩寵によって、蝋梅は賢くて逞しい特徴を兼ね備えるに至りました。梅や桜といったバラ科の植物と同様、他の植物がまだ目を覚まさぬ冬のうちに活動を開始。葉よりも先に花を咲かせることで、お腹を空かせた鳥たちや、活発になり始めた虫たちが自然と集まってきます。また、土壌や日照時間といった条件に左右されにくい強さも魅力。ただし、そのような蝋梅にも弱みはあります。唯一の弱点として知られる「乾燥」は、私たちの信仰生活にとっても大敵です。

 「芽は出たが、水気がないので枯れてしまった(ルカ8:6)」種とならぬよう、ハリストスは私たち全員を招いておられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい(イオアン7:37)」。なぜなら、「命のパンである…わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(同上6:35)」からであり、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(同上4:14)」と。大斎に臨む私たちに欠かせないのは、まさにこの「永遠の命に至る水」です。つまり、まだ神様を受け容れていない者には「洗礼」への準備、すでに受洗を果たした信徒には「第二の洗(『聖事経』)」である「痛悔」、加えて「領聖」が期待されます。

 ところが、私たちは神様の慈愛に甘えてしまいがち。ゆえに、最初の人アダムは自らの不義で追い出された楽園に対し、「我を造りし主に我が爾の花に満てられんことを祈れ(乾酪主日のスボタ晩課より)」と嘆いたのでした。けれども、「最後のアダム(コリンフ前15:45)」はこの声を聞き逃しなさいません。その証拠に、毎年大斎を迎える頃、街角ではスパイシーで爽やかな香りが立ち込めます。蝋梅がバトンを渡す次のランナー:沈丁花に秘められた意味は、「栄光」そして「勝利」です。日常に先取りされた「春は我等に輝き、主宰の光明にして神聖なる復活は輝きて、我等を地より天の「パスハ」に赴かしむ(ゲオルギイ祭の光耀歌)」ための重要な道標と言えましょう。

 神様の願いは「我が造物の滅ぶるを欲せず、即其救を得、及び真実を知るに至らんこと(乾酪主日のスボタ晩課より)」であり、「我に来る者は、我之を外に逐わざらん(同上)」と約束しておられます。よって、私たちはこの大斎を「怠惰(エフレムの祝文)」のうちに過ごしてはなりません。人々がひたむきに神様を追い求めるならば、「真実の春は麗しく至りて、ハリストス生を施す主を識る敬虔なる知識を以て造物を新にす(ゲオルギイ祭の小晩課より)」ることでしょう。「雲に蔽われて後に天日の光は欣ばし、冬の閉塞の後に春は嬉し(ウラディミル祭のカノン)」。だからこそ、公奉事でエフレムの祝文を唱え始める日の祈祷文は、この喜びを分かち合うべく私たちに呼び掛けます。すなわち、「斎の春、痛悔の花は輝けり、故に兄弟よ、我等は凡の汚より己を潔めて、光を賜う者に歌いて言わん、独人を愛しむ主よ、光栄は爾に帰す(乾酪週間水曜日の晩課より)」と。

(伝教者 ソロモン 川島 大)

■2021年2月 属性

 「「明けない夜はない」とか言ってくる人、朝が希望に満ちていると思ってる時点で仲良くできない(@chigusasoichiさん)」。短文投稿サイトTwitterにて呟かれたこのフレーズ。1月13日に発信されるや瞬く間に拡散し、2月初旬現在までで20万件近くもの「いいね」を集めました。
 
 これには、占いやカードゲームに存在する「属性」という概念が、少なからず影響を与えているように思われます。例えば、火の属性同士なら相乗効果が期待されたり、異なる属性なら土と木、火と水のように、組み合わせ次第で相性の良し悪しが発生したりする仕組み。プラス思考の人が光属性で、マイナス思考の人が闇属性、といった具合に、私たち人間にもこうした分類は可能か否か。
 
 ここで厄介なのが、この二つは相反する属性である、という先入観です。確かに、神様は「光を見て、良し(創世記1:4)」とされながら、「闇を見て、良し」とはされませんでした。けれども、光である神様ご自身に似せて創造された私たちは、本来的に「光属性」一択と言えましょう。
 
 金口イオアンによると「太陽の光線に囲まれる者は、ごく僅かな暗闇でさえも遠ざからざるを得ません」。逆説的に捉えれば、神様に背く者はその分だけ悪魔に付け入る隙を与えており、自らネガティブな感情を増幅させることとなります。旧約の民を見ても分かるように、人々は原祖アダム以来、知ると知らずして光から遠ざかる「茨の道」を歩んできました。ましてや、暗闇を好む人にとって、居心地の良さを実感する世界を慌てて抜け出す必要などない、と考えるのは自然な流れ。
 
 だからこそ、神様はその都度あらゆる手段を講じつつ、闇に住む者には「身を現せ(イサイヤ49:9)」と呼び掛けておられます。ついには、人類最高の模範であるマリヤさまを通して、暗闇に居る人々の上に「正しき太陽」であるハリストスをも輝かせられました(迎接祭の讃詞)。つまり、私たちが光を敵視して対極の「闇属性」をいくら自認しようとも、人類はみな「光の子、昼の子(フェサロニカ前5:6)」としての可能性を秘めているのです。
 
 さて、2月14日と言えば、世間ではバレンタインデー。愛する人や日頃お世話になっている人に対し、チョコレートなどをプレゼントする日として有名です。同じ日の夕方より正教会で祝われる主のお宮参り「迎接祭」もまた、神様から私たちへのバレンタインデー。諸外国では、聖体礼儀の前後に蝋燭を祝福する習慣が知られます。信仰生活に欠かせないこの蠟燭は、「目に見える炎で燃え上がって夜の闇を追い払うがゆえ、私たちの心は目に見えぬ炎で燃え上がり、聖神の輝きにて照らされ、あらゆる罪の盲目を追放する(『大聖事経』)」真実の光です。
 
 この光を手にしていない者は、長いトンネルのような出口の見えぬ人生に対し、恐怖や不安を覚えるでしょう。しかしながら、このような状況には神様からのメッセージが込められています。敬虔な祭司のシメオンは、聖神によってこう告げられました。「復活を賜う(迎接祭の讃詞)」主を神殿で迎え入れ、自らの胸に抱くまでは「決して死なない(ルカ2:26)」と。
 
 朝が希望に満ちていないのは、他者の責任や偶然の結果ではありません。それは、神様が必死で贈ろうとするプレゼントを自分自身で拒んでいるから。思い立ったが吉日、私たちは「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう(フェサロニカ前5:6)」。洗礼を受け、さらには領聖を果たし、迎接祭で捧げられた蝋燭を自ら手に入れるべきなのです。そうすれば、私たちはもはや「夜にも暗闇にも属していません(同上)」。
 
 こうして、神様を本当の意味で知り、運命の出会いを果たしたならば、「既に真の光を観た(『奉事経』)」者として永遠の国へと導かれるはず。これこそが、神様からの最大の贈り物、私たちにとっての真実の夜明け、すなわち希望に満ちた喜ばしき朝なのです。

(伝教者 ソロモン 川島 大)