大斎準備週間の第三主日は、この日を境に信徒が肉食を制限する慣わしから「断肉の主日」として知られます。あるいは、当日読まれる福音書の箇所に基づき「審判の主日」とも呼ばれます。この内容を要約すれば、善良な人々は常に目を覚ました善き行いが評価され、反対に呪われた人々は相手によって対応を変える小細工が神に忌み嫌われる、という示唆がなされています。
① 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。
かつて神戸の六甲山牧場を訪れた時のことです。ヒツジもヤギも思い思いに牧草地を駆け回っていました。私たちの思い描くヒツジと言えば、毛がモコモコとした姿。これに対しヤギと言えば、立派なヒゲを持つ姿をイメージするものでしょう。とはいえ、ヤギだけで7種、ヒツジに至っては10種も同じ空間に放牧されていたら、素人目には見た目や鳴き声だけでは判別の難しい個体も存在します。そして、これは人間の世界でも様々なシーンで起こり得る話なのです。
② 王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
③ それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
お分かりいただけますでしょうか。これらはいずれも両極端な事例が示されています。しかしながら、ヒツジとヤギの例を振り返ると、間違いなくヒツジ、どう見てもヤギ、のように特定できる個体もいれば、特徴が似通っていてどちらか分からない個体もいるのです。ただし、明確なこともあります。それは主がどのような個体を好まれるのか。その基準に照らし合わせた結果、「一見善良そうに見えて、実は腹黒い個体」はアウトの側へ。一方で、「一見邪悪そうに見えて、実は根が優しい」なんてケースも往々にしてあるでしょう。こちらは当然、セーフの側に選別されるはず。
④ そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
⑤ そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
残念ながら、世の中には相手の立場や情勢をうかがってから行動に移すずる賢い人がいます。でも、それは決して他人事ではありません。もしあなたが家事や仕事で疲れている時、あるいは精神的・金銭的に余裕がない時、普段と同じように他人の相手ができるでしょうか。やはり家族同士であってもこれには困難が伴います。おまけに、良い記憶はあやふやである一方、悪い記憶は事細かに憶えられているもの。けれども、抜き打ち検査、覆面調査が一体いつ行われるのか、具体的には明かされていません。だからこそ、自分では「いつ良いことをしたのか」分からなくなるぐらい、困っている人に対してごく自然に救いの手を差し伸べられる人間性の獲得を目指すべきなのです。
(輔祭 ソロモン 川島 大)