■2023年1月 塩味

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう(マトフェイ5:13)」。長らく、この言葉の意味を理解できずにいた私。ところが、先日インターネット上で身近な食品が話題になったことで、ようやく腑に落ちました。ネットニュースによると、日本の伝統食品である梅干しの消費量が年々伸び悩んでおり、このままでは程なくして梅干し産業は立ち行かなくなるとのこと。すると、それに危機感を覚えた食品会社が、Twitterで消費者に「どのような梅干しを食べたいか」と希望を募ったのです。その結果、消費者は生産者の意に反して、梅と塩と赤紫蘇だけで作られた「普通の」梅干し、を求めていることが判明。今や普通の梅干しは、直売所か高価な嗜好品として売られているのみで、巷ではなかなか手に入らないとの窮状を訴えます。皮肉にも、市場拡大を狙う各社がこぞって売り出した、健康志向の「減塩梅干し」、食べ易さ重視の「はちみつ味」や「かつお味」などのラインナップは、本物を求める消費者には見向きもされません。まるで、「畑にも肥料にも、役立たず(ルカ14:35)」、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ(マトフェイ5:13)」の塩気を失った塩のように思われます。

 ここで本題に移りますが、「塩」には二つの役割があります。一つが、食材の長期保存を可能にすること。もう一つが、食材に風味を付けることです。「爾(ハリストス)が己の顯現にて萬有を照しし時、不信の鹹き海は走り、下に流るるイオルダンは回りて、我等を天に登す」。この表現は、永遠の生命へと至るために洗礼を受けなければならない、との示唆を私たちに与えます。ただし、ロトの妻のような不従順は、せっかくの塩気をダマにしてしまいがち。「靈よ、爾復歸りて、鹽柱と爲る毋れ」、「神聖なる諸徳の鹽を以て諸罪の腐敗を潔めて、神に就けよ」と自らを奮い起こしましょう。

 また、「人は皆、火で塩味を付けられる、またあらゆる祭品は、塩で塩味を付けられる(マルコ9:49)」と主は仰いました。ですから、洗礼をお受けになったハリストスにも、ハリストスに倣って洗礼を受ける私たちにも「火の舌」である神聖神の恩寵が降り注ぎます。そして、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ(レワィト2:13)」との言葉通り、私たちはパンとぶどう酒を祈祷で捧げるだけでなく、自分自身をも神様への捧げ物とするのです。人を愛する主は、「聖にせられし爾の門徒の敎の鹽を以て、人類の中に廣まりたる惡の敗壞を止めて」くださいます。ゆえに、私たちは主の後継者であり、先輩信徒でもある聖人たちに対して、神様へのとりなしを願うのです。「全地の鹽と爲りし主の使徒、神の言を宣べたる者よ、我が心の朽つるを止めて、鹽の味を失いし者を鹹に返し給え」、「救を施す敎の鹽として、我が朽ちたる智慧を醫して、我より無智の幽暗を拂い給え」と。

 かつて、旧約の預言者「エリセイは鹽を以て生産なからしむる水を治して、奥妙に、先祖の神よ、爾は崇め讃めらると歌う者にあらんとする尊き洗盤の多産を前兆」しました。主が水を清められたことで、本来は「もはやここから死も不毛も起こらない(列王記第四巻2:21)」はずなのです。けれども、残念ながら「死」も「不毛な争い」も現実には途絶えません。それはなぜでしょうか。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい(マルコ9:50)」。つまり、新約において語られた主の御言葉を忘れてしまうからなのです。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです(イアコフ3:17-18)」。全地の塩である聖使徒たちもまた、私たちの塩味に期待を寄せていることでしょう。

(伝教者 ソロモン 川島 大)